
胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第1章 《槇野のお転婆姫》
泉水は時橋が聞いたらまた怒り出しそうなことを考えつつ、肩をすくめた。良人の監視の眼が光っていないからこそ、こうして気軽に屋敷を抜け出すこともできる。何故、時橋がああまで泰雅の仕打ちを怒るのか、泉水には正直理解できない。
泉水が嫁ぐに当たり、泰雅はお手つきの腰元たちにすべて永の暇を与えて屋敷から下がらせたという。一体、この屋敷だけでお手つきの女が何人いたのか―知りたくもないが、噂では少なくとも数人はいたそうだ―、とにかく泰雅は彼なりに槇野家の息女を迎えるに至り、身辺整理をしたには相違ない。とりあえずは、新婚早々の新妻と側妾を同じ屋敷内に置くのはまずいと判断したのだろう。
とはいえ、泰雅の手のついた女は巷にもいるというし、一度や二度の戯れ程度の相手ならそれこそ数えきれぬであろうから、一々詮索しても意味のないことかもしれない。お手つきの女どもをすべて屋敷から下がらせただけでも、泰雅の槇野家へのせめてもの配慮なのだろうと思う。
泉水への非礼が槇野家への、引いては父源太夫への侮辱にもなりかねないというのは判らないでもないが、当の泉水がこのままで良いのだと言うのだから、ああまで気にすることはないのに。
今日の泉水は黒髪を頭頂部で高く一つに結わえ、紫と紅のふた色の紐で束ねている。小袖は淡紅色、袴は華やいだ紫色である。久しぶりの若衆姿であった。どうも屋敷内で身にまとっているきらびやかな小袖や打ち掛けは泉水の性に合わない。
小さな橋を渡り終えた泉水はふと、女の悲鳴が背後で聞こえたのを耳ざとく捉えた。
ここは和泉橋町と呼ばれ、武家屋敷が続く閑静な一角だ。泉水の住まう榊原屋敷は、その中でもひときわ眼を引く広壮な邸宅だ。
和泉橋と呼ばれる小さな橋のたもとには、一本の桜の大樹がひっそりと佇んでいる。春の盛りの今は、薄紅色の花が重なり合うように咲き誇り、その影が水面に映っていた。
泉水は腰の刀に無意識に手をやった。小刀だが、むろん真剣で、名のある刀工の手になるものだ。悲鳴の聞こえた方角に向けて駆ける。ほどなく、狭い小路で数人の若侍に囲まれた親子連れを見かけた。女は三十前ほどだろう、子どもは見たところ、六、七歳といったところか。前髪立ちの愛らしい男の子で、母親を小さな身体でその後ろに庇って、若侍たちを睨み上げている。
泉水が嫁ぐに当たり、泰雅はお手つきの腰元たちにすべて永の暇を与えて屋敷から下がらせたという。一体、この屋敷だけでお手つきの女が何人いたのか―知りたくもないが、噂では少なくとも数人はいたそうだ―、とにかく泰雅は彼なりに槇野家の息女を迎えるに至り、身辺整理をしたには相違ない。とりあえずは、新婚早々の新妻と側妾を同じ屋敷内に置くのはまずいと判断したのだろう。
とはいえ、泰雅の手のついた女は巷にもいるというし、一度や二度の戯れ程度の相手ならそれこそ数えきれぬであろうから、一々詮索しても意味のないことかもしれない。お手つきの女どもをすべて屋敷から下がらせただけでも、泰雅の槇野家へのせめてもの配慮なのだろうと思う。
泉水への非礼が槇野家への、引いては父源太夫への侮辱にもなりかねないというのは判らないでもないが、当の泉水がこのままで良いのだと言うのだから、ああまで気にすることはないのに。
今日の泉水は黒髪を頭頂部で高く一つに結わえ、紫と紅のふた色の紐で束ねている。小袖は淡紅色、袴は華やいだ紫色である。久しぶりの若衆姿であった。どうも屋敷内で身にまとっているきらびやかな小袖や打ち掛けは泉水の性に合わない。
小さな橋を渡り終えた泉水はふと、女の悲鳴が背後で聞こえたのを耳ざとく捉えた。
ここは和泉橋町と呼ばれ、武家屋敷が続く閑静な一角だ。泉水の住まう榊原屋敷は、その中でもひときわ眼を引く広壮な邸宅だ。
和泉橋と呼ばれる小さな橋のたもとには、一本の桜の大樹がひっそりと佇んでいる。春の盛りの今は、薄紅色の花が重なり合うように咲き誇り、その影が水面に映っていた。
泉水は腰の刀に無意識に手をやった。小刀だが、むろん真剣で、名のある刀工の手になるものだ。悲鳴の聞こえた方角に向けて駆ける。ほどなく、狭い小路で数人の若侍に囲まれた親子連れを見かけた。女は三十前ほどだろう、子どもは見たところ、六、七歳といったところか。前髪立ちの愛らしい男の子で、母親を小さな身体でその後ろに庇って、若侍たちを睨み上げている。
