テキストサイズ

胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第1章 《槇野のお転婆姫》

 泉水が父に何も言わないのは、ただ心配をかけたくないからだけではない。自分の訴え一つが両家の間に要らぬ争いを起こしてはならぬと考えるからでもある。切れ者と評判の男ならば、泉水の腹の内なぞ端から見抜いているのかもしれない。
「姫さま、姫さま、私の申し上げることをお聞きになられているのでござりますか!?」
 時橋の焦れたような声に、泉水は物想いから現実に引き戻された。
「済まぬ、少し考えごとをしておったようじゃ」
 泉水はペロリと舌を出した。見ようによっては愛らしい仕草と見えぬこともないが、大身旗本の奥方にはおよそふさわしからぬ下品なふるまいだ。
「姫さま、また、そのような下々の者どものようなおふるまいをなされて。いくら私がご注意申し上げても、姫さまはお止め下さらぬのでございますね。そのようにお幾つになられても、まるで童のようでいらっしゃるから―」
 愚痴の次は小言かと、泉水は内心、辟易としてきた。一刻も早く、この場から逃げ出したい。
「それにしても、この私は情けのうござります。私のお育ての仕方が悪かったばかりに、このようなことになってしまったのでござりましょう。今の姫さまのご不遇をご覧あそばされば、玉(ぎよく)葉(よう)院(いん)さまはいかほどお嘆きのことか」
 泉水が何とかこの乳母から解放されるすべはないものかと機会を窺っている間にも、時橋の愚痴は延々と続いている。
 時橋は名を弥子(やすこ)といい、泉水の生母玉葉院とは乳姉妹(ちきようだい)の関係にあった。弥子の母が玉葉院の乳母を務めた関係で、弥子自身も少女の頃から側近く仕え、玉葉院が榊原家に入輿するのに付き従ってきた。玉葉院貴美子は京生まれの京育ち、生家は権中納言家であり、れきとした公卿の姫君である。
「ああ、私は玉葉院さまに何と申し上げたら良いやら判りませぬ。それにつけても、姫さまがお労しや」
よよと声を上げて泣き伏す時橋に、泉水は遠慮がちに言った。
「案ずるには及ばぬ、時橋。私はそなたが思うほど気にしてはおらぬゆえ」
「何ですと?」
 どうやら、その言葉が気に入らなかったらしく、ちらりと一瞥するのに、泉水は慌てて殊勝げに言った。

ストーリーメニュー

TOPTOPへ