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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第8章 予期せぬ災難

「何となくお前に似てるよ」
 そう言った誠吉の表情に、濃い孤独の翳が落ちている。誠吉が時折見せる淋しげな顔だった。
 泉水は今、なにゆえ、誠吉がこんな表情をいるのか漸く判った。おさよの名を口にする時、誠吉の胸にはみすみす死なせてしまった最愛の娘との日々を思い出さずにはいられないのだろう。
 それでも、忘れられない。だからこそ、記憶を失った自分に、大切な女の名を与えたのかもしれない。
 泉水がそんな想いに沈んでいると、誠吉が我に返ったように言った。
「おっ、もうこんなに暗くなっちまったか。随分と話し込んじまったようだな」
 周囲を眺め、ぼやきながら誠吉は行灯に火を入れている。
 いつしか長い夏の陽も暮れ、狭い四畳半は薄い闇が立ちこめている。外は薄墨を溶きながしたような夜の色に染まっていた。
「きれいですよね、この花。早速、お水を上げなきゃ」
 泉水が明るい声で言うと、誠吉が頷いた。
「まだまだ花が咲きそうだから、愉しみだな」
 泉水ははしゃいだ声を上げながら、夕顔の鉢を大切そうに抱えて持ち上げ、表に運んだ。
 遠く聞こえていた蝉の声はふっつりと止んでいた。陽が落ちても、昼間の暑さは相変わらずで、夜気は熱を孕んでいる。それでも、風が出てきたのか、近くから風鈴の鳴る音が聞こえてきた。

 それからも泉水は夜毎、夢を見た。
 泉水は暗闇の中をただひたすら歩いてゆく。周囲には真っ暗な闇の帳が降りていて、ひとすじの光さえ見当たらない。
 何かを掴もうと手を伸ばしてみても、空しく宙を泳ぐばかり。
 ほら、また、遠くで私を呼んでいる。
 あの人は誰?
 切なげで哀しそうな声。
 お願い、あなたは誰なのか教えて。
 あなたが誰でも良いから、私をここから連れ出して。
 闇の中に一人で居続けるのは淋しすぎるもの。闇の中をたった一人で歩き続けるのに、もう疲れてしまったの。
 あなたは、私にとって大切な人なのでしょう?
 ならば、私を迎えにきて。

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