テキストサイズ

胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第8章 予期せぬ災難

 我知らず身体が震えてくる。
 と、誠吉がハッとした顔になった。
「す、済まねえ。強く言い過ぎちまった。怖がらせてしまったのなら、このとおり、謝るよ」
 誠吉は心底済まなさそうに言うと、気遣わしげに泉水を見た。
「すぐに返事をくれとは言わない。でも、考えてみて欲しいんだ。俺は真剣なんだ。お前と所帯を持ちたいと考えてる」
 それだけ言うと、誠吉は布団に再び潜り込んだ。
「もう今夜は寝よう、お前も疲れてるだろう、おやすみ」
 背中だけ向けて言い、誠吉はほどなく軽い寝息を立て始めた。
 泉水もまた薄い粗末な夜具に身を横たえたが、眠りはいっかな訪れなかった。
―お前がどこの誰かなんて、俺にはどうでも良い。新しく生まれ変わったつもりで、俺と生き直しちゃくれねえか。
 耳奥で誠吉の言葉が幾度も蘇った。
 どうしよう、どうしたら良いのだろう。
 泉水の眼にまた新たな涙が溢れた。
 まさか誠吉から所帯を持とうと言われるとは、想像だにしていなかった。兄のように優しい、信頼できる男だと思っていたのだ。
 好意は抱いていたけれど、それは例えて言うなら妹が兄を慕うようなもので、けして男女間に芽生えた感情ではない。
 誠吉に対する気持ちは、あの呼び声―闇の向こうから自分を呼び続ける人に対するものとは全然違う。誠吉に慕わしさを感じてはいるけれど、あの声を聞くときのような、心ざわめくことはない。泣きたくなるような狂おしい感情に駆られることもない。
 その時、突如として、泉水の心に閃いたものがあった。
 あの人は、自分を探している人は、兄などではない。もしかしたら、惚れた男か、恋人だった男かもしれない。だからこそ、あの声を聞くと、無性に哀しくてやり切れなくなるのかもしれない。
 泉水は布団を被り、声を殺して泣いた。
 誠吉には言葉では言い尽くせない恩がある。瀕死の重傷を負った身を看病してくれた。泉水が助かったのも誠吉のお陰によるところが大きいだろう。
 感謝もしているし、好感は持っているが、惚れているわけではない。だが、泉水の記憶は依然として戻らないままで、名前さえ思い出せない状態が続いている。

ストーリーメニュー

TOPTOPへ