胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第9章 驟雨
《驟雨》
誠吉はふと仕事中の手を止めた。明日までに町人町の小間物問屋に品物を納めなければならない。今夜は徹夜になりそうだった。
「何だ、気のせいか」
独りごち、再び作業に没頭しようとして、また顔を上げる。表の戸を控え目に叩く音が聞こえる。
誠吉は舌打ちしたい想いになった。
職人にはありがちなことではあるが、誠吉もまた仕事中にふいの闖入者が入ることを歓迎しなかった。
このような時、おさよがいればすぐに出てくれるのだけれど、生憎、今は近くまで買い物に出かけていて、留守であった。
彼が〝おさよ〟と、かつての恋人の名をかりそめに与えた女は本当に良い娘であった。かなりの、それも武門の家に生まれ育ったことを窺わせる気品だけでなく、優しさや聡明さといった、あらゆる美点を持っている。
そして、何より、あの何事にも一生懸命に向かってゆく姿には、健気さ、いじらしさを感じて、思わず守ってやりたくなってしまう。
泣き顔も可愛いし、笑った顔も可愛い。くるくると風車のように変わる表情には、あどけない少女の顔もあれば、どきりとさせるような大人びた表情がある。あの娘を知れば知るほど、誠吉は惹かれずにはおれなかった。
その間にも、腰高障子を叩く音は止まない。 誠吉はやむなく立ち上がり、三和土に降りた。
内側から戸を開けてやると、向こうに長身の若い男が佇んでいた。誠吉でさえ、ハッとするほどの美しい男である。同じ男ですらそう思うのだから、女はさぞかし眼を奪われるに相違ない。
そう考えた時、何か嫌な予感がした。誠吉は眼前の男をしげしげと見つめた。身なりの良い―恐らくは武士だろう。刹那、誠吉の中の予感はほぼ確信めいたものになった。
「ここは錺職の誠吉さんの住まいですか」
着ている羽織や袴からもこの若い侍が相当の立場にいるとは知れたが、相手は丁重な物言いで話しかけてきた。その態度にはいささかの傲岸さもない。
「へえ。確かにあっしは錺職の誠吉と申しやすが」
とりあえずは頷くと、男は居住まいを正した。
「こちらに泉水という若い女がいると存ずるが」
誠吉はふと仕事中の手を止めた。明日までに町人町の小間物問屋に品物を納めなければならない。今夜は徹夜になりそうだった。
「何だ、気のせいか」
独りごち、再び作業に没頭しようとして、また顔を上げる。表の戸を控え目に叩く音が聞こえる。
誠吉は舌打ちしたい想いになった。
職人にはありがちなことではあるが、誠吉もまた仕事中にふいの闖入者が入ることを歓迎しなかった。
このような時、おさよがいればすぐに出てくれるのだけれど、生憎、今は近くまで買い物に出かけていて、留守であった。
彼が〝おさよ〟と、かつての恋人の名をかりそめに与えた女は本当に良い娘であった。かなりの、それも武門の家に生まれ育ったことを窺わせる気品だけでなく、優しさや聡明さといった、あらゆる美点を持っている。
そして、何より、あの何事にも一生懸命に向かってゆく姿には、健気さ、いじらしさを感じて、思わず守ってやりたくなってしまう。
泣き顔も可愛いし、笑った顔も可愛い。くるくると風車のように変わる表情には、あどけない少女の顔もあれば、どきりとさせるような大人びた表情がある。あの娘を知れば知るほど、誠吉は惹かれずにはおれなかった。
その間にも、腰高障子を叩く音は止まない。 誠吉はやむなく立ち上がり、三和土に降りた。
内側から戸を開けてやると、向こうに長身の若い男が佇んでいた。誠吉でさえ、ハッとするほどの美しい男である。同じ男ですらそう思うのだから、女はさぞかし眼を奪われるに相違ない。
そう考えた時、何か嫌な予感がした。誠吉は眼前の男をしげしげと見つめた。身なりの良い―恐らくは武士だろう。刹那、誠吉の中の予感はほぼ確信めいたものになった。
「ここは錺職の誠吉さんの住まいですか」
着ている羽織や袴からもこの若い侍が相当の立場にいるとは知れたが、相手は丁重な物言いで話しかけてきた。その態度にはいささかの傲岸さもない。
「へえ。確かにあっしは錺職の誠吉と申しやすが」
とりあえずは頷くと、男は居住まいを正した。
「こちらに泉水という若い女がいると存ずるが」