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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第9章 驟雨

 あくまでも物腰は変わらず穏やかであったが、口調には有無を言わせぬ響きがある。生まれながらに他人に命令し従わせることに慣れた者だけが持つものだった。
 誠吉は上目遣いに相手を見上げた。
 態度といい話し方といい、どこにも偉ぶったところはなく、むしろ礼儀正しいにも拘わらず、圧倒的な存在感を放つ男である。
 だが、誠吉も負けるつもりはなかった。
「泉水―さまでございますか?」
 と、あくまでもとぼけてやる。
 心の中で、そうか、あの女、俺がおさよと名付けた女の真の名は泉水というのだなとぼんやりと思った。
「さよう、泉水はそれがしの妻にござるが、ひと月ほど前、突如としてゆく方知れずになり申した。方々手を尽くして探しており申したが、杳としてゆく方は知れぬ状態、それがつい昨日、こちらに泉水らしき女がいるという情報を得て参りました」
―やはり、そうだったのか。
 誠吉は、暗澹たる気持になった。
 おさよには亭主がいたのだ―。見たところ、年の頃は十六、七ほどに見えたから、もしかしたら人妻なのかもしれないと覚悟はしていたはずだったのに、いざ現実を知ると、やはり落ち込んだ。
 おさよが着ていた着物は到底、その日暮らしの町人の着るようなものではなかった。身なりからしても武家の娘であることは察せられたし、ならば、町方役人の方へゆく方不明の届け出がなされておらぬのも頷ける。
 恐らく、この男は独自に妻のゆく方を追っていたに相違ない。おさよの居所を突き止めたというのは、この男、つまり、おさよの亭主が召し抱える家臣といったところだろう。
「そうでございやすか。ですが、旦那、残念なことに、手前のところには泉水さまとかいうご内室さまはおられません。確かにあっしには女房がおりやす。おさよという幼なじみと所帯を持っておりやすが、うちのかかあがお武家さまの奥方だなぞとはとんでもねえお話で。きっと人違いでございやしょう。生憎と、あっしは仕事が立て込んでおります。もしお願いできますなら、人違いとお判りになったところで、お引き取り頂けやせんか」
 侍相手に無礼な口のききようではあったが、誠吉は眼前のこの男がそのような些末なことで立腹するような人間ではないことを見抜いていた。

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