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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第9章 驟雨

「さようか。人違いとあらば、致し方ない。できれば、そこもとの妻女の顔を見て帰りたかったが」
 その科白に、誠吉は眉をつり上げた。
「申し訳ありやせん。女房は今、買い物に出ておりまして。本当に申し訳ねえっこってす」
 態度だけは慇懃に深く頭を垂れる。
「いや、留守ならば良いのだ。仕事中、邪魔をしたな」
 男はすんなりと諦め、背を向けて帰っていった。腰高が閉まってほどなく、雨音が聞こえ始めた。そういえば、昼過ぎから雲が出て、今にも降り出しそうな陰鬱な空模様だった。
 誠吉はすぐに仕事に取りかかろうとしたが、なかなか意識が集中できなかった。普段なら、こんなことはまずない。たとえ来客があろうと、用が済めば、また己れの世界に戻り、細工に全神経を傾けることができるのだ。
 雨は止むどころか、ますます烈しくなるようだ。地面を、屋根を打つ雨音が耳につく。
 あの男は、この雨の中を帰っていったのか。そして、男の帰っていった場所にこそ、あのおさよ―泉水の本来居るべき場所がある。
 そこまで考えた時、誠吉の中で熱いものがたぎり、身体中を駆け巡った。絶対に返さない、誰にも渡さない。あの女は俺のものだ。死の淵から俺が助け出したのだ。
 もう二度と惚れた女を奪われるのはご免だった。おさよ、いや、泉水だけは失いたくないと強く思った。
 雨音はいっそう激しくなったようだ。誠吉はやおら立ち上がった。
 おさよが行ったのは長屋の木戸口を出てすぐの小さな八百屋だ。よもや、あの男と出くわしたりはしないだろうが、この雨では難儀しているに相違ない。
 誠吉は外に出た。途端に、大粒の雨が容赦なしに降りかかってくる。まるで盥をひっくり返したような大降りになっていた。
 雨の中を傘をさして歩いてゆくと、向こうから駆けてくる人影が見えた。
 手を額にかざし、弾むような足取りで駆けてくるのは、彼がおさよと名付けた娘だった。亡くなったおさよが着ていた着物がよく似合う。
 おさよの手には大根が一本と青菜が少々。
 誠吉が傘を差し掛けてやると、眩しい笑みを向けてくる。
「急に降り出してしまって、嫌な雨」
 と少し拗ねたような口調で空を見上げながら言う。

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