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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第9章 驟雨

「途中で誰かに逢わなかったか?」
 何げないふりを装い問うと、あどけない表情で首を振った。
「いいえ、でも、どうして?」
 こんな少女のような顔を見せる女に良人がいたことに、今更ながら信じられぬ想いがする。あの美しい男に抱かれて、この女は一体、どんな表情を見せていたのだろう。そう想像しだたけで、嫉妬の焔と怒りでで身体が煮え立ちそうだ。それが、いかに理不尽な感情かと知りながらも、誠吉は、おさよの身体を幾度も抱いたであろう、あの男を殺してやりたいほどの憎悪をいだかずにはいられない。
 誠吉の瞼に、おさよの裸身がありありと蘇る。荷車に轢かれたおさよを長屋に連れ帰り、傷の手当てをした時、寝間着を着替えさせたり、身体を拭いてやったり―、誠吉はおさよの意識がない間、何度もその裸身を眼にした。
 触れれば、吸いつきそうなほどに弾力のある白い膚、小柄だけれど、ふくよかな形の良いまろやかな乳房。少女の名残を残した可愛らしい顔からは想像できない、十分に成熟した女の身体であった。あの嫌みなほど男っぷりの良い男は、あの白い身体を欲しいままにしたのか。
 あの男の腕の中で、おさよはどんな顔を―。
 ふと、視線を感じ、誠吉はぎくりとした。
 傍らのおさよが怯えたように誠吉を見上げている。
「どうした?」
 できるだけ優しげな顔で訊ねると、おさよは慌てて視線を逸らした。
「誠吉さん、何だかいつもと違うような気がします。―少し怖い」
「馬鹿だな、そんなはずないだろう」
 誠吉は明るい声で言うと、屈託なく訊ねた。
「今夜のおかずは何かな?」
 その問いに、もう、おさよの眼が輝きを取り戻す。本当によく表情の変わる娘だ。見ていて、飽きない。こんな女と一生を過ごせたら、きっと毎日心愉しい日々を過ごせるに相違ない。
 たとえ裏店住まいのその日暮らしだとしても、夫婦二人で肩を寄せ合い、生きてゆく。その中には子どもが生まれ、親子だけのささやかな幸せを築けるだろう。
 いつしか、見果てぬ夢を思い描いていた誠吉は、おさよの声に我に返った。
「今夜は大根の煮付け、誠吉さんの好物でしょ」
「そうか、そいつは愉しみだな。料理の方も代分腕を上げたものな」

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