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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第9章 驟雨

 その時。
 誠吉がつと手を伸ばした。
「簪を変えたのか?」
 訊ねられ、泉水は頷いた。
 誠吉が泉水の黒髪にそっと触れる。その大きな手のひらが桜の玉簪を抜き取った。
「たまには違う簪も良いかなと思って。でも、季節外れだから、やっぱり変かしら」
 泉水が肩をすくめると、誠吉は自らが作った簪を掌にのせ、凝視した。
 泉水は昨日までは夕顔の簪を挿していた。こちらも誠吉の丹精した簪で、泉水としては、どちらも気に入っている。だが、誠吉にしてみれば、求愛したときに渡した簪の方に特別な思い入れでもあるのだろうか。もしかしたら、夕顔の簪をしていないことが気に入らなかった―?
 泉水は誠吉といる自分がどうも本当の自分の姿ではないような気がする。本来の自分はもっと素のままの自分を見せる人間で、こんな風に毎日、事ある度に男の機嫌を窺って息を潜めているような女ではないように思えるのだ。
 簪、簪―と、泉水は無意識の中に心の中で繰り返していた。あの玉簪は泉水が荷車に轢かれた時、懐に入っていたものだという。ならば、あの簪は泉水の身許を知る唯一の手がかりといっても良い、大切な品だ。
 自分は、あの簪をどうしやって手に入れたのだろう。誰かに貰ったのか、それとも、買ったのか。
 判らない、いくら考えてみても判らない。
 これ以上思い出そうとすれば、また烈しく頭が痛み出すだろう。それでも、やってみよう。いつまでも、このままというわけにはゆかない。
 自分がどこの誰か判らないままなんて、あまりにも哀しい。まるで果てしない海の上をきの葉に乗って流されているような心許なさだ。所帯を持とうと言ってくれた誠吉にどのような返事をするにしても、泉水はまず、本当は自分が誰なのかを知りたかった。
 誠吉は桜の玉簪を眼の前にかざして振っている。しゃらしゃらと無数に連なった玉がこすれ合い、涼やかな音を立てた。
 しゃらしゃら、しゃらしゃら―。
 澄んだ、良い音色だ。心が和んでゆくような。
 しゃらしゃら、しゃらしゃら。
 誠吉がなおも簪を振る。その音色が泉水の耳にひときわ大きく響いたような気がした。

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