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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第9章 驟雨

 そこで、泉水の中で唐突に閃いたものがあった。
 一つの光景が瞼にまざまざと蘇る。
 それは小間物屋の店先、たくさんのきれいな簪が並べられていて、泉水は魅せられたように眺めていた。
 あの時、自分は一つの簪を選んだ。
 黄楊でできた玉簪が大きく眼に映じる。
―この簪はまだ名もない若い職人の手になるものでございます。
―流石は良いお品をお選びでございますね。
 あの店の手代の声が聞こえてくる。
 泉水をひとめで魅了した簪は、その秀逸な出来にも拘わらず、愕くほど安価だった。応対した手代の話によれば、まだ名のない職人の細工ゆえだということだった。
 桜の花が二つ寄り添い合う簪は、その下に小さな玉が鈴なりについていて、耳許で振ると、小さな音を立てた。
 しゃらしゃら、しゃらしゃら。
 しゃらしゃら、しゃらしゃら。
「私、思い出しました!」
 誠吉がハッとした表情になる。
「何か―思い出したのか?」
 一緒に歓んでくれるとばかり思ったのに、誠吉の顔が心なしか、強ばっているように見えたのは気のせいだろうか。
「私、この簪を買ったんです」
 そう、自分はこの玉簪を小間物屋の店先で見て、ひとめで気に入って買った。あの店は、確か、それほど大きな店ではなかった。大店ばかりが軒を連ねる中に挟まれるようにして建つ、小体な店だ。
 それでも、大勢の若い娘や、中年の女が群がって、狭い店内は客で一杯だった。
 一つの記憶が蘇ると、後は次から次へと糸を手繰り寄せるように記憶が巻き戻され、幾つもの情景が順序立てて脳裏に浮かぶ。
 泉水は眼を閉じて、ゆっくりとそれらの情景を反芻してゆく。
「あの事故に遭う少し前のことです。簪を買いました。小さな小間物屋で、店先に並んでいた品の中にあったと思います。ひとめで気に入って、ああ、良い細工だなと思いました。耳許で振ると、とても澄んだ小気味の良い音がして―。でも、あの店は、どこのお店だったんでしょうか」
 泉水は小首を傾げて、何とか思い出そうとした。短い静寂が流れる。
 更に記憶の糸を手繰り寄せてみる。

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