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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第9章 驟雨

 そろそろ葉月も終わりとあって、すだき始めた虫の声が川原の草むらから聞こえてくる。昼間はまだ真夏並みの残暑だが、川面を渡る夜風には初秋の気配を孕んでいる。
 空を仰ぐ。藍を流した辺りに月が光っていた。身体を包む夜気には夜と土と雨の匂いがする。
 その風に、ほのかに花の香りが混じっているその香りに誘われるように視線をゆるりと巡らすと、どこかの大きなお屋敷の塀の傍で白い花が揺れていた。夜陰に妖しく浮かび上がる大輪の花は夕顔であった。
 ひんやりとした風に首を撫でられ、泉水は小さく震えた。
 ここは、どこなのだろう。
 まるで見知らぬ場所にたった一人で放り出されたような心細さを憶えた。
 と、ふいに耳の中にキーンという金属質な音が響いた。あの頭痛が起きる前兆の耳鳴りだ。泉水は両手で耳を覆い、その場にくずおれた。しゃがみ込んだ姿勢のまま、頭を抱え込み膝に顔を伏せる。
 耐え難いほどの痛みが押し寄せた。
 その痛みの中で、泉水は確かに見ていた。
 ひと月前、この眼前の小さな橋を渡り、向こう岸へと歩いてゆく自分の姿を。
 淡紅色の小袖に浅黄色の袴を身につけた凛々しい若衆姿の娘が橋を渡る。娘はあまたの人々が行き交う大通りを揚々と歩いている。
 大通りの両沿いには名だたる大店が軒を連ねている。娘はその中の一つに入った。
 といっても、その店は両隣の店のような大店ではない。挿して構えも大きくはなく、むしろ小体な店だ。色とりどりの簪や櫛を商っていることから、小間物屋だと判る。
 娘はその店先に並ぶ簪の中から一つを手に取った。気に入ったらしく、色んな角度から眺めている。
 娘に若い手代風の男が寄ってきた。
 どうやら、若衆姿の娘を、手代は男と勘違いして声をかけてきたようだ。
 しきりに恐縮して頭を下げる手代に、娘は笑って首を振る。
―このようななりをしている方が悪いのです。
 確か、そのようなことを言ったように思う。
 感じの良い店だなと、漠然とその時感じた。 小さいけれど、奉公人は親切、愛想も良いし、置いている品も比較的安価で、良質だ。 品質と価格がほどよく釣り合っている印象だった。そう、あの店は―。

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