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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第9章 驟雨

 唐突に、店の名が浮かんだ。
 確か、あの小間物屋は「駿河屋」といった。 うだるような真夏の陽差しが降り注ぐ午後、「駿河屋」と紺地に白で染め抜かれた暖簾がかすかに揺れていた。
 駿河屋は町人町の目抜き通りに居を構えている。ここから、そう遠くない場所、眼と鼻の先にあるはずだ。自分はあの日、確かに駿河屋で桜の玉簪を買い求めた。
 そして、駿河屋を出てほどなく、向こうから走ってきた荷車にぶつかったのだ。
 私の、私の名前は―。
 眠れぬ幾夜もの間、束の間の眠りの底で聞いたあの声の人は。
「泉水」
 呼び声に、泉水は自分の心が震えたのを自覚した。
 この声を何度も夢の中で聞いた。
 この名でどれほど呼ばれたかったことだろう。そう、私の名は泉水。誠吉が大切にしてきた〝おさよ〟という名前などではなく。
 ちゃんとした名前がある。
 愕きに眼を見開き、背後を振り返る。
「俺があれほど言っただろう、勝手に屋敷を一人で抜け出しちゃならねえって」
 果てのない闇の中で、泉水はいつも一人ぼっちだった。でも、闇の彼方から自分を呼び続けてくれる人の声に励まされ、闇の中をいつ終わるとも知れぬ道を歩き続けた。
 自分を呼ぶ人が誰なのか、その人の呼ぶ名は何なのか判らぬもどかしさに、何度も涙を流し、絶望に押し潰されそうになった。
 それでも、逢いたくて、ただ、この人に逢いたくて、泉水はたった一人で孤独に耐え続けたのだ。
 榊原泰雅、私の良人。この世のでたった一人の男だ。このひとが私をずっと呼び続けてくれた。私の逢いたかったのは、この男だ。
 泉水は泣きながら泰雅のひろげた両手に飛び込んだ。
「馬鹿、もう二度と俺から離れるんじゃねえ。俺がどれほど心配して探し回ったか、判ってるのか。人を死ぬほど心配させやがって」
 泰雅の泉水を抱きしめた手に力がこもる。
「ごめんさない、ごめんなさい―」
 号泣する泉水の艶やかな髪を、泰雅がそっと撫でた。
 やっと帰ってきたのだ。自分の居場所に。良人泰雅の傍、何より安らげる場所に。
 泰雅の腕にこうして抱かれていると、まるで親鳥の翼に守られている雛のような安心感に包まれる。

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