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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第9章 驟雨

 だが、泰雅の妻としてこの屋敷に帰ってきたからには、この簪はもう身につけない方が良いのかもしれない。泰雅は何も言わないけれど、勘が鋭いあの男のことゆえ、見慣れぬこの簪についてはとうに気付いているに違いない。泉水がいつまでも誠吉の作った簪を髪に挿しているのを見るのは泰雅も内心は面白くはないだろう。
 こうやって榊原の屋敷に帰ってきてみると、泉水は町外れの長屋で誠吉と共に過ごした日々が何か遠い昔のように思える。
 もう、二度と逢うことはないだろうか。あれほどの腕を持つ男だ、いずれは名の通った職人になることだろう。
 この簪を見ていると、何故か、あの淋しげに笑う若い錺職人の貌が心をよぎる。
 泉水は夕顔の簪を手に握りしめた。
「お方さま」
 時橋の声に、泉水は振り向く。
 この忠実無比の乳母は帰ってきた泉水を抱きしめて、周囲をはばかりもせず、おいおいと声を上げて泣いた。
―姫さま。私があれほど申し上げましたのに、黙ってお出かけになどなられますゆえ、このようなことになるのでございますよ?
 取り乱すあまり、〝お方さま〟と呼ぶことさえ忘れていた有様だった。
 良人泰雅と乳母の時橋が同じことを言ったのも泉水にとっては印象的だった。時橋は泉水にとっては、本当に大切な母親代わりの存在なのだと思い知らされた。
 時橋はひとしきり泣いた後、ぼやくのも忘れなかった。
―もう二度とこのような想いをするのはいやでございます。ほんに、このひと月で十年は歳を取ったような心地にござります。
 口だけでなく、時橋は実際に少し髪に白いものが増え、ひと回りは痩せたように見える。この乳母のことだから、恐らくは泣き暮らすか、心配で夜もろくに眠らなかったであろうことは容易に想像できた。
 心配をかけたのは泰雅だけではない。この心優しい乳母にも泉水は心底から申し訳なく思った。
 振り向いた泉水を、時橋が軽く睨む。
「何をお考えにございますか?」
「何じゃ、そのように怖い顔をして」
 泉水が笑うと、時橋は更に渋面になった。
「まさか、また抜け出そうとなぞとお考えになっていらっしゃるのではないでしょうね」

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