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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第10章 幻

《巻の壱―幻―》

 泉水はふと空を振り仰いだ。両手を頭の後ろで組んだ恰好で、涯(はて)なく蒼い空を見上げ、うーんと声を出して思いきり伸びをする。その拍子に鼻の奥がむずがゆくなり、クシュンと小さなくしゃみを洩らした。その姿は誰がどう見ても、到底、五千石の大身旗本の奥方にはふさわしくない。乳母の時橋が見れば、また、引っくり返らんばかりになって怒りまくるに相違ない。
―姫さまは一体、ご自分のお立場というものをどのようにお考えあそばされていらっしゃるのですか?
 柳眉を逆立てて口から泡を吹かんばかりの勢いでまくし立てる忠実な乳母の表情までもがありありと眼前に浮かんでくるようで、思わずクスリと笑いを零す。
 泉水は今を時めく勘定奉行槙野源太夫宗俊の息女であり、去年の二月に五千石の直参旗本榊原泰雅に嫁いだ。槙野源太夫は当代の将軍徳川家宗公の信頼も厚く、辣腕の勘定奉行として知られている。槇野家もやはり三千石取りの直参であったが、三河以来の譜代、名門榊原家に比べれば、家格も禄高も及ばない。
 そもそもこの両家の間で当主泰雅と泉水の縁談が浮上したのは、時の将軍家宗公のお声がかりによるものであった。
 泉水は八歳の砌に御家人堀田久永の次男祐次郎と婚約したが、祐次郎はその三年後の冬、十四歳で早世した。以来、泉水は〝物の怪憑き〟と人々から怖れられ、泉水と縁組した男は物の怪憑きの姫に取り殺されるという心ない噂が囁かれるようになった。
 そのため、公方さまのおん憶えもめでたい時の権力者を父に持ちながら、泉水を嫁に迎えたがる―、あるいは槇野家に婿入りしようとする勇気ある若者は誰一人としておらぬ有り様であった。
 一方、相手の泰雅の方についても、やたらと芳しからぬ噂がついて回っていた。〝稀代の好き者〟、〝無類の女好き〟、泰雅に関しての風評は色々あったが、いずれもが病気と称されるほどの泰雅の女好きを指すものであったといえよう。とにかく、美しい女、色っぽい女と見れば口説かずにはおれない性分のようで、屋敷内の腰元だけでは足りず、町へ出ては武家娘、町人の娘と問わず片っ端から手を付けていた。

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