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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第10章 幻

 このような男に大切な娘を嫁にやりたいと思う親がいるはずもなく、〝今光源氏〟と異名を取るほどの艶やかな美男でありながら、泰雅は独り身であった。当人もまた、気ままな独身生活を謳歌しており、強いて妻を娶るつもりもなかったらしい。
 ところが、である。そんな泰雅のゆく末を将軍家宗公は殊の外憂えた。女狂いの遊び人とはいえ、この泰雅、実は将軍家とも縁続きの男である。泰雅の母景容院は家宗公の姪に当たる。つまり、景容院の母恭姫(やすひめ)が家宗公と母を同じくする妹君になるのだ。
 恭姫は前(さきの)老中水野大膳に嫁し、二人の間に景容院が生まれた。要するに、榊原泰雅は先老中を祖父とし、将軍の妹を祖母に持つという類稀なる高貴な血筋を誇る男であった。
 家宗公は姪になる景容院を幼時から可愛がっており、一時、景容院は家宗公の猶子として江戸城大奥で暮らしていたことがあるほどである。ゆえに、家宗公がこの姪の子どもについていたく気にかけられていたことにも納得はゆく。
 家宗公は一計を案じた。物の怪憑きといわくのある姫と稀代の遊び人と噂される泰雅をこの際一緒にしてしまおうとお考えになったのである。公方さまおん直々のお声がかりともあって、この縁組は存外にすんなりと調い、泉水は去年の春まだ浅い日、榊原泰雅に嫁ぐことにあいなった。
 最初は何かとすれ違いの多かったこの夫婦ではあったけれど、町中で互いを夫婦とは知らず出逢い、恋に落ちた。
 泉水は抜けるように蒼い空を眺めつつ、この一年の出来事を思い巡らせていた。町中でめぐり逢った泰雅をよもや良人とは思いもせず、一途に恋い慕った日々。晴れて結ばれてからも、泰雅の落胤や側妾と称される女が出現―後にこれは間違いだとは判った―、更には泉水が荷車に轢かれる事故に遭い、記憶を失うという事件が起こった。
 泰雅のことどころか、我が身の素性さえ思い出せぬ状態となったのだ。幸いにも誠吉という若い飾り職人に助けられ、誠吉の許で養生したお陰で一命を取り止め、記憶を取り戻すことができた。
 しかし、誠吉が泉水に惚れてしまい、誠吉になびこうとせぬ泉水に乱暴しようとさえした。誠吉の許を辛くも逃げ出した泉水は漸く良人泰雅の許に戻ることができたけれど、今でも誠吉のあの淋しげな笑顔がふと心をよぎることはある。

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