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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第10章 幻

 今日、泉水は町外れの随明寺に詣でた。随明寺は黄檗宗の名刹で、開基は浄徳大和尚である。浄徳は京都の宇治に万福寺を開いた高僧隠元隆琦の高弟の一人で、時の帝より紫衣・大師号を賜与されるという栄誉に恵まれたものの、丁重に辞退、市井で衆生と共に生きる道を選び一生を布教に捧げた。
 今でも月に一度の浄徳大和尚の命日には、広い境内に所狭しと露店が並び、大勢の参詣客で賑わう。ここ随明寺は江戸の桜の名所としても知られる。まだ弥生の下旬にさしかかったばかりで、境内の桜はようよう一分か二分花開いたというところだが、気の早い人々が花見に訪れる姿があちこちで見かけられた。
 あと数日もすれば満開になるに違いないが、そうなると、普段は森閑とした境内が花見客で押すな押すなの賑わいになる。あの人出には正直、辟易するけれど、その頃にまた、泰雅を誘って花見に訪れるのも良いかもしれない、などと心浮き立つ想像に胸躍らせながら、泉水は随明寺の門前道を歩いていた。花の盛りにはまだ間があるとて、細い道には人影はない。
 その時。背後で悲鳴が聞こえ、泉水はハッと我に返った。咄嗟に腰にはいた剣に手をかける。振り向くと、少し離れた後ろで、子どもが泣いていた。子どもの近くに大きな野犬がいて、烈しく吠え立てている。
 灰色の身体は薄汚れていて、しかも並外れて大きな犬だ。首輪もしておらぬことから見ても、飼い犬ではない。
 子どもは男の子で七、八歳くらいだろうか、大きな犬に吠えかかられ、すっかり怯えて泣きじゃくっている。泉水は刀から手を放すと、静かに彼等に近づいた。まず泣いている男の子の肩にそっと手をのせ、耳許で囁く。
「泣かないで、もう、大丈夫だから。泣き声が余計に犬を刺激してしまうの。だから、良い子だから、泣き止んでちょうだい」
 急に話しかけられた子どもは最初愕いていたが、すぐに泣き止んだ。泉水は子どもを安心させるように微笑んで見せると、まだ唸り声を上げている野犬に更に近づいた。
 懐からあり合わせの菓子を取り出すと、灰色の犬の前に差し出す。それは、〝かすていら〟という南蛮渡来の洋菓子であった。小麦粉や砂糖、卵などを混ぜ、蒸し焼きにしたもので、江戸時代初期に長崎に伝来した。

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