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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第10章 幻

 このかすていらは九州の雄藩島津家より将軍家に献上されたものであり、更にそれを将軍から泰雅に賜ったものだ。泰雅は今のところ、お役目にはついてはいないが、月に何度かは将軍さまのご機嫌伺いに登城する。
 おん年六十二歳の家宗公には現在、世継たるべき男子が一人もいない。御台所には早くに先立たれ、十指に余る側室との間に六人の若君・姫君を儲けたものの、四人の公子たちは皆、成人することなく夭折してしまったという淋しい身の上だ。
 老齢の将軍が目下のところ愉しみにしているのが、この泰雅の訪問であった。
―上さまは榊原どのをいたくお気に召しておわす。
 大名たちは殿中の廊下ですれ違う泰雅に慇懃な態度で頭を下げたが―、その裏で家宗公と泰雅が衆道の仲ではないかなぞと馬鹿げたことを囁く者どももいた。何しろ泰雅は並の女よりは、よほど美しい。
 家宗公はまた、美しい生きものに並外れた執着があった。側小姓たちもすべて、より抜きの美少年ばかりで、最近は大奥で側室と過ごす夜よりも中奥で美童を伽に召して夜を過ごされることが多いとも聞く。そんな家宗公であれば、たとえ姪の息子とはいえ、手を付けていないとは言い切れない、と、下卑た噂が実にまことしやかに語られている。
 だが、むろん、泉水は、良人と将軍をめぐる、そのような噂は知らない。昨日も泰雅は例のごとく登城し、一刻ほど家宗公と歓談し、つれづれをお慰めしてから退出してきた。
 その折、南蛮渡りの珍しい菓子を賜ったのだと、泰雅が嬉しげに話しながら泉水にも分け与えてくれた。十二歳で父を喪った泰雅は、畏れ多いことではあるけれど、もしかしたら血続きの家宗公に父親に対するような情を抱いているのかもしれない。もっとも、これは、あくまでも泉水の推測の域を出ないことではあるが。
 泉水にしてみれば、泰雅を将軍が何かにつけ召し出そうとするのは、単に息子のおらぬ淋しさを紛らわせているのだとしか考えていない。
「良い子だから、吠えるのは止めて。ほら、これを上げる。甘くて、とっても美味しいのよ」
 泉水は犬の顔をじっと見つめながら、優しく言い聞かせた。
「お前は本当は優しくて、大人しい子なのよね? もしかしたら、あの坊やと一緒に遊びたかったんじゃない? だったら吠えたりしないで、ね?」

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