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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第10章 幻

 まるで人間の子どもに言い聞かせるような口調で語りかけている中に、次第に犬が大人しくなってきた。唸り声が止み、尻尾をくるんと巻いて、しきりに振り始めた。
「良い子、私の言葉が判ったのね。ありがとう、ご褒美にこれを上げましょうね」
 泉水は、かすていらを半分に割ると、犬に手ずから与えた。犬はさも美味げに口を動かして、泉水の手からかすていらを食べる。すっかり食べ終えると、甘えるような鳴き声を上げ、鼻面を泉水の手に押しつけてきた。
 その様子を少し離れた場所から震えて眺めていた子どもが眼を見開いて言った。
「凄い、姉ちゃん、まるで手妻を使ってるみだいだったねえ」
 元々、泉水は動物が嫌いではない。どちらかといえば、好きな方だ。幼い頃には、四十雀(しじゆうから)を飼っていたこともあるほどだ。それに、たとえ犬であれ猫であれ、動物にも心はちゃんとあるはずだ。こちらが心を開いて話しかければ、きっと向こうも心を開いてくれるはずだという確信があった。
 だが、幼い子どもにしてみれば、あっとう間にたけり狂う猛犬を手なずけてしまった泉水が手妻(手品)使いのように見えたのだろう。
「よしよし、良い子ね」
 泉水は自分もしゃがみ込んで、甘えてくる犬の頭を撫でてやりながら、男の子に言った。
「あなたも良い子ですぐに泣き止んだから、この子も大人しくなったのよ」
 笑って言い、残りの半分のかすていらを子どもに握らせた。
「うちは、この近くなの?」
 子どもは元気よく頷いた。
「うん、甚平店に住んでるんだ」
 甚平店であれば、このすぐ近くの長屋だ。子どもの脚でも知れている。
「じゃあ、一人で帰れるかしら」
 問いかけるように言うと、頭がこっくりする。
「うん、平気だよ」
「気をつけて帰るのよ」
 その声に、子どもは無邪気な笑顔を見せて、走り去っていった。ぴょんぴょん飛び跳ねるような後ろ姿を見送りながら、泉水はひとりでに口許を緩めていた。
「子ども―、か」
 実際に口に出してみると、更に笑みが零れる。いつの日か、自分もあんな子を、可愛い子どもを泰雅との間に授かるのだろうか。

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