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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第10章 幻

 祝言から一年、榊原家に仕える重臣を初め家臣一同が泉水の一日も早い懐妊を待ち侘びていることを知らぬわけではない。
 泰雅は夜毎、泉水の部屋を訪れるが、泉水にはまだ懐妊の兆はない。武門の家に跡取りは必要だ。
―どうして、私には殿のお子が授からぬのであろう―。
 ふと、そんな不安がかすめることがある。
 実家から付いてきて、今も変わらずまめやかに仕えてくれる乳母の時橋は笑顔で言う。
―姫さまはまだ十代のお若さにて、まだまだ、これから先、幾らでも御子をお授かりになられましょう。ご婚儀からやっと一年経ったばかりのこの時、さほどにお心を悩ませられずともよろしいのですよ。
 しかし、時橋のとりなしにも、胸の奥に芽生えた不安は一向に消えない。むしろ、日毎に膨らんでゆくようだ。どうせならば、随明寺で子宝を授けて下さいますようにとお願いしてくるのだったと、泉水が少しばかり後悔したそのときのことだ。
 ふいにクスリと笑い声が聞こえた。まるで忍び笑いのような、低く抑えた声なのに、不思議と人の心をわしづかみにし、烈しく揺さぶるような―。
 突如として耳を打った妖しい笑い声に、泉水はビクリとした。弾かれたように顔を上げると、随明寺の山門から伸びた長い石段を、ゆっくりと一人の僧侶が降りてくるところであった。何がおかしいのか、墨染めの衣を身にまとったうら若い僧は、くすくすと低い声で笑っている。
 だが、泉水が固まったのは、その笑い声のせいではなかった。目深に被った菅笠をおもむろに外した僧の顔は―、あろうことか亡き許婚者堀田祐次郎に酷似していたのだ!
 いや正確にいえば、十四歳で亡くなった祐次郎があのまま健やかで年月を重ねていれば、こんな風な青年になったであろう、そう思わせる容貌であった。色白で細面のその整った顔立ちは、まさに少年の日の祐次郎の面影を濃く宿している。泉水の中で、封印されていた懐かしい記憶が、想い出が次々に蘇る。
 たった一度だけ二人きりで親しく言葉を交わした早春のひととき。槙野の屋敷の庭には色鮮やかな真紅の椿が咲いていた―。急に降り出した雨、祐次郎に手を引かれて駆け込んだ四阿(あずまや)、二人して眺めた景色。
 突如として鳴り響いた雷鳴に怯える泉水を、祐次郎は優しく抱きしめてくれた。

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