胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第10章 幻
次にめざめたのは、それから、いかほどの刻を経ていたのであろうか。ゆるりと重い瞼を開いた泉水は、慌てて身体を起こそうしたが、こめかみに鈍い痛みを憶え、思わず片手で額を押さえた。
「ご心配は要りません、少し立ちくらみを起こされただけのようです」
間近で男の声がして、泉水はハッと身構える。
と、くっくっと喉の奥で低く笑う声が続いた。
「何をそのように警戒なさる必要があるのでしょう。私はご覧のとおり、ただの行きずりの僧侶にございます。私如き何の力も持たない僧に、榊原五千石のご内室さまが何を怖れることがあるというのでしょうか?」
泉水は愕然として、若い僧の整った顔を見つめた。この男は泉水が何者なのかを、榊原泰雅の妻であることを知っている。では、泉水の身許を知った上で、その前に立ち現れたのか。
低い忍び笑いは、ひとしきり続いた。まるで地の底より響いてくるような凶々しさを秘めていながらも、どこか人を惹きつけるような妖しさを持っている。
泉水は周囲を見回した。どうやら、ここは絵馬堂の中のようだ。随明寺の境内は広く、金堂、三重ノ塔、更に奥まった部分には絵馬堂、開祖の浄徳大和尚を祀る奥ノ院と諸伽藍が点在する。
ちなみに、江戸の花見の名所図絵にも載るほどの桜は奥ノ院の傍らの〝大池〟と呼ばれる巨きな池のほとりに植わった数本の樹を指す。盛りの時季には、それこそ遠方からでもその樹々の周囲に薄桃色の霧が立ち込めているように見える。
奥ノ院と大池の更に奥に入ったところが墓地になり、墓地の入り口近くに、小さな阿弥陀堂がひっそりと建っている。その界隈は、広大な境内地の中でも最奥部に当たり、昼間でも殆ど人影が見当たらない。いや、何も墓地まで脚を伸ばさずとも、既に絵馬堂の辺りまで来れば、閑散として滅多と人に行き会うことがないのは確かだ。
しかし、いくら花見の時季ほどではないとはいえ、そろそろ花も咲き初(そ)めるこの季節は、常よりは人の眼もあるはずだ。それなのに、この僧は、どうやって人眼にも触れず、泉水をここまで運んだのか。
不気味な笑いが止んだ。
「ご心配は要りません、少し立ちくらみを起こされただけのようです」
間近で男の声がして、泉水はハッと身構える。
と、くっくっと喉の奥で低く笑う声が続いた。
「何をそのように警戒なさる必要があるのでしょう。私はご覧のとおり、ただの行きずりの僧侶にございます。私如き何の力も持たない僧に、榊原五千石のご内室さまが何を怖れることがあるというのでしょうか?」
泉水は愕然として、若い僧の整った顔を見つめた。この男は泉水が何者なのかを、榊原泰雅の妻であることを知っている。では、泉水の身許を知った上で、その前に立ち現れたのか。
低い忍び笑いは、ひとしきり続いた。まるで地の底より響いてくるような凶々しさを秘めていながらも、どこか人を惹きつけるような妖しさを持っている。
泉水は周囲を見回した。どうやら、ここは絵馬堂の中のようだ。随明寺の境内は広く、金堂、三重ノ塔、更に奥まった部分には絵馬堂、開祖の浄徳大和尚を祀る奥ノ院と諸伽藍が点在する。
ちなみに、江戸の花見の名所図絵にも載るほどの桜は奥ノ院の傍らの〝大池〟と呼ばれる巨きな池のほとりに植わった数本の樹を指す。盛りの時季には、それこそ遠方からでもその樹々の周囲に薄桃色の霧が立ち込めているように見える。
奥ノ院と大池の更に奥に入ったところが墓地になり、墓地の入り口近くに、小さな阿弥陀堂がひっそりと建っている。その界隈は、広大な境内地の中でも最奥部に当たり、昼間でも殆ど人影が見当たらない。いや、何も墓地まで脚を伸ばさずとも、既に絵馬堂の辺りまで来れば、閑散として滅多と人に行き会うことがないのは確かだ。
しかし、いくら花見の時季ほどではないとはいえ、そろそろ花も咲き初(そ)めるこの季節は、常よりは人の眼もあるはずだ。それなのに、この僧は、どうやって人眼にも触れず、泉水をここまで運んだのか。
不気味な笑いが止んだ。