胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第10章 幻
「これは私めとしたことが、戯れ言が過ぎたようにござります。どうか先ほどの言葉はお忘れ下さいますよう。名なぞ、とうの昔に忘れ果てました。今では思い出すこともなく、また思い出したとて、詮ないことにございます。それにしても、野犬にたった一人で立ち向かってゆくとは、相変わらずのお転婆姫ぶりにございますな。ご夫君の榊原さまは、いつも気が気ではございませんでしょうが、私は変わらぬ姫の姿を拝見し、嬉しうございました」
言い終わると共に、扉は再び閉まった。その直前、鈴を転がすような声が聞こえる。
「私は待っていますよ」
玲瓏とした声は深く抑揚があり、魂までをも縛りつけ、聞く者を魅了するかのようだ。
泉水は茫然として閉ざされた両開きの扉を眺めていた。
―私は、今の、そのままの姫が好きです。だから、ずっと今のままで変わらないでいて下さい。
祐次郎の科白が何度も耳奥でこだました。
妖しい僧、得体の知れない僧であった。いきなり現れて、泉水に亡き許婚者の存在を匂わせるようなことを言うかと思えば、裏腹に、あっさりと否定する。一体、何が目的で、あのような泉水を惑乱させることばかりを口にするのだろう。
だが、と、その一方で考えずにはおれない。あの僧が万に一つ、本物の祐次郎であったとしたら?
確かに現実として堀田祐次郎は八年前に亡くなったことになっている。しかし、もし、その死んだはずの祐次郎が生きていたとしたら? 何らかの事情でその存在を抹消され、この世には既にいないはずの人間になってしまったのだとしたら?
泉水は両手で顔を覆った。判らない。すべてが謎に包まれている。あの若い僧の存在そのものからして、全く見当がつかないのだ。
―私は待っていますよ。
唐突に、澄んだ声音が耳の底で鳴り響いた。まるで天上の楽の音(ね)のように浄らかでいて、地獄からの使者のように人の心を妖しく惑わせる不吉な声。
泉水は、ゆらりと立ち上がると、何ものかにあやつられる傀儡(くぐつ)のようにふらつきながら絵馬堂を後にした。
言い終わると共に、扉は再び閉まった。その直前、鈴を転がすような声が聞こえる。
「私は待っていますよ」
玲瓏とした声は深く抑揚があり、魂までをも縛りつけ、聞く者を魅了するかのようだ。
泉水は茫然として閉ざされた両開きの扉を眺めていた。
―私は、今の、そのままの姫が好きです。だから、ずっと今のままで変わらないでいて下さい。
祐次郎の科白が何度も耳奥でこだました。
妖しい僧、得体の知れない僧であった。いきなり現れて、泉水に亡き許婚者の存在を匂わせるようなことを言うかと思えば、裏腹に、あっさりと否定する。一体、何が目的で、あのような泉水を惑乱させることばかりを口にするのだろう。
だが、と、その一方で考えずにはおれない。あの僧が万に一つ、本物の祐次郎であったとしたら?
確かに現実として堀田祐次郎は八年前に亡くなったことになっている。しかし、もし、その死んだはずの祐次郎が生きていたとしたら? 何らかの事情でその存在を抹消され、この世には既にいないはずの人間になってしまったのだとしたら?
泉水は両手で顔を覆った。判らない。すべてが謎に包まれている。あの若い僧の存在そのものからして、全く見当がつかないのだ。
―私は待っていますよ。
唐突に、澄んだ声音が耳の底で鳴り響いた。まるで天上の楽の音(ね)のように浄らかでいて、地獄からの使者のように人の心を妖しく惑わせる不吉な声。
泉水は、ゆらりと立ち上がると、何ものかにあやつられる傀儡(くぐつ)のようにふらつきながら絵馬堂を後にした。