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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第11章 花

《巻の弐―花―》

 鳥の啼き声が近くで響いたかと思えば、庭の桜の樹の枝が一瞬、揺れた。薄桃色のたっぷりとした花をつけた枝はかすかに身を震わせ、桜貝のような花びらをはらはらと散り零す。
 泉水は軽い吐息を洩らし、蒼空へと吸い込まれてゆく鳥の影を追った。高く舞い上がった鳥は、直に見えなくなる。
「―お方さま、お方さま」
 背後からそっと呼びかけられ、泉水はゆっくりと振り向く。そこには気遣わしげな乳母の顔があった。
「何か、お悩み事でもおありでございますか?」
 時橋が案ずるのも無理はない。
 桜の咲き始めたばかりの随明寺で、あの妖しい僧と出逢ってから、数日が経っていた。あの日以来、泉水はどこか心ここにあらずといった体で、何を話しかけてみても上の空だ。
「お方さま?」
 やや高い声で問われ、漸く泉水がハッとした表情になる。
「どうした、時橋、何か用なのか?」
 まるで、とんちんかんな要領を得ぬ応えに、時橋はいささか大仰にも思える吐息をこれ見よがしについた。
「一体、どうなされたのでございますか? ここ、四、五日、少しご様子が変でいらっしゃるように存じ上げますが」
 何しろ生まれたときから育てた乳母だけに、主従の間柄とはいえ、かなり言いたいことを言う。が、その口うるささも遠慮のない物言いもすべては泉水を思うがためのものと知っている。
「いや、別に」
 泉水は気のない返事を返すと、再び庭にボウとした視線を投げた。
 ここは榊原家の屋敷の奥向きの一角、泉水の居室である。春たけなわのこの時季、部屋の障子戸はすべて開け放っている。
 何事か思案に耽る様子の泉水を見て、時橋はまた、吐息を吐いた。泉水がいくらごまかそうとしても、このお傍去らずの乳母の眼をごまかすことはできない。
 ここ数日―、正確には数日前に女主人の身に何か起こったのは、どうやら明らかなようであった。いつも明るくて朗らかな泉水がすっかり塞ぎ込んでしまっている。泉水の態度に微妙な変化が現れたのは、数日前からである。

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