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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第11章 花

「脇坂が一体、私に何用があるというのであろうな」
 呟きが終わらない中に、襖越しに腰元の声が聞こえた。
「ご家老さまがお見えにござりまする」
 泉水が時橋に眼顔で頷いて見せる。
 時橋は心得たというように小さく頷き返し、つと立ち上がった。
「お通し致せ」
 ほどなく襖が静かに開き、長身の初老の男が現れた。榊原家の家老脇坂倉之助元信、今年、四十五になる。泰雅の父泰久の代より仕えてきた重臣中の重臣だ。態度や物腰はどこまでも穏やかだが、冷徹な能吏といった印象を与えるのは、冷え冷えとした光を放つ眼のせいだろう。
 実際、脇坂はまず何よりも榊原の家名を重んじてきた。この男にとって最も重要なのは、連綿と受け継がれてきた名門榊原氏の家そのものであり、恐らくは当主―主君である泰雅さえ、二の次ではないのか。優雅な立ち居ふるまいで部屋に入ってきた脇坂は泉水よりはるかに下座に座り、手をついた。
「奥方さまにはご機嫌麗しく、恐悦至極に存じ上げまする」
 型どおりの挨拶を言上する倉之助に、泉水は笑った。
「脇坂どの自らが私に用とは珍しいの」
 ハ、と、倉之助が更に畏まって平伏する。
 通常、当主以外の男性が奥向きに脚を踏み入れることは許されない。男たちの活躍する政の場である表と、女たちの根城である奥向きは厳然と隔てられており、唯一、奥に自由に出入りできるのは屋敷の主人だけである。
 それは江戸城の表御殿と〝大奥〟と称される将軍の後宮と同じ論理であった。いわば、当主にとっての公邸が表御殿、私邸が奥御殿であり、奥御殿の主はいわずと知れた正室だ。
 泉水のたっての願いで、槇野家より付き従ってきた坂井琢馬という老臣だけは奥向きの泉水の部屋を訪ねることを許されている。また、家老脇坂倉之助も火急の用があるときのみの条件付きで出入りを許されている一人であった。
「本日は真に不躾なる御事をお伺い致しますれど、お方さまにおかれましては、ご懐妊のご兆候はいまだおありにはございませんでしょうか」
 突然の予期せぬ言葉に、泉水は瞠目する。
 傍らに控えた時橋がキッと眦(まなじり)をつり上げた。

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