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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第11章 花

「脇坂さま、たとえご家老のお立場にあるお方とは申せ、今のお言葉は聞き捨てなりませぬぞ。いきなりお越しになってのそのお言葉、一体何とお心得か?」
 唇をわななかせる時橋を泉水は制した。
「脇坂どの、そなたがわざわざそのようなことを申しにくるとは、よほどのことであろう。その理由(わけ)をしかと聞かせて貰えぬか」
「は、ありがたきご諚にござります」
 倉之助は面を上げると、居住まいを正した。
「実は、表の家臣たちの間で殿にご側室をお勧めする儀が起こっておりまする。時橋どのは、そのような話をご存じでありましょう」
 話をふられ、時橋は一瞬、狼狽の色を見せた。
「はい、それは確かに耳にしたことはございますが」
 そこでちらりと気遣うように女主人の方を窺い、続けた。
「お方さまは、まだおん年十八歳のお若さ、しかも、殿におかせられてもおん年二十六でいらせられます。ご夫婦共にまだまだお若いというに、ご結婚してまだ一年の年月を経ただけでそれほど騒ぐこともございますまい。せめて、二、三年はお二人でごゆっくりとお過ごし頂いた方がよろしいのでは?」
「時橋どのは何かお考え違いをなさっておられるようですな。まだ、ではござりませぬ。もう、一年でござりますぞ」
 強い語調で言い返され、時橋は絶句した。
「時橋どのが奥方さまを何よりおん大切にお思い申し上げるお気持ちは、よう判りまする。我らとて、このようなことを何も好んで申し上げているのではない。さりながら、時橋どのが奥方さまをおん大切に思われるのと等しく、我らも殿を、この榊原のお家を大事に思うております。これが世のさしたる名もなき家のことなれば、祝言を挙げて一年余り、何も一日も早いお世継のご生誕をと焦る必要は毛頭ござらぬ。されど、この榊原のお家は畏れ多くも初代神君東照公以来、脈々と続いた由緒正しきお家柄、ましてや、殿は公方さまのお血筋をも引かれるお方にござります。先代泰久公が三十歳というお若さでお隠れあそばされた経緯を考えれば、殿には一日も早くこの榊原のお家をお継ぎにならるるご立派なお世継を儲けて頂かねばなりませぬ」
 まだ何か言おうとする時橋に首を振り、泉水は頷いた。
「そちの申すことは理(ことわり)、武家にとりて世継がおらぬ大変さは、この私も身に滲みておる」

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