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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第11章 花

「私は、あのお言葉こそが、お方さまの本音ではないかと拝察仕りまする。武家にとりてお世継さまがおわさぬことは一大事、それは私もよくよく存じ上げますれど、それは所詮、建て前にございましょう。人は建て前だけでは生きてはゆけませぬ。建て前だけをふりかざして進めば、いつしか己が心さえ見失うてしまいます。畏れ多いことではございますが、私はお方さまご誕生の砌より我が子ともお思い申し上げ、お仕え参らせてきました。私には榊原のお家も大切ではございますが、いちばん大切なのは、お方さまにございます。お方さまには是が非でも、お幸せになって頂きたいのです」
「―時橋」
 泉水が時橋を見た。その眼には冴え冴えと煌く涙の雫が宿っている。
「本当は、私だって殿に側室なぞお持ち頂きとうはない。殿が他の女子に笑いかけたりするのを見とうはない。されど、それが所詮は、武家に生まれた女子の運命(さだめ)、習いであろう。いつまでも子どもじみたことばかり申して、殿を困らせとうはない。私がかような我がままを申せば、お困りにならるるのは殿じゃ。重臣たちと私との間で板挟みになって、さぞ辛き想いをなされるであろう。私には到底そのようなことはできぬ。殿をお苦しめしとうはない」
「お方さま―」
 そこまでの秘めたる覚悟を聞かされ、最早、言葉もない時橋であった。
「武門の家に生まれた女子とは、げに辛きものじゃのう。市井に生きる者ならば、このような想いをすることもなく、たとえ子はおらずとも夫婦が二人寄り添い合い仲睦まじう過ごすこともできるであろうに」
 淋しげに呟く泉水の横顔を見て、時橋は胸をつかれた。
 泉水はすべてを諦めたような表情で、放心したように庭を見つめている。
 時橋にも言ったように、本音としては、泰雅に側女など持って欲しくはない。大好きな泰雅が見も知らぬ女に微笑みかけたり、二人で愉しげに過ごすのを見るのは嫌だった。泰雅を誰にも渡したくないと思う。
 だが、泉水は泰雅の妻であり、一人の女である前に、榊原家の当主の妻であった。当主の妻たるもの、家老脇坂倉之助の言うとおり、自分の感情よりはお家を第一に考え、まずは榊原家の存続を最優先にしなければならないだろう。

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