胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第11章 花
脇坂の考えは、けして間違ってはいない。榊原の家が続いてゆく限り、仕える家臣たちも皆、路頭に迷うこともない。しかし、ひとたび、お家が断絶の憂き目を見れば、あまたの者が禄を失い、日々の生活の糧を得るのにも苦労することになる。
お家の存続は単に榊原氏の家の問題ではなく、多くの家臣やその家族の命運すら左右する。それに、泉水一人の個人的な感情を差し挟むべきではなかった。たとえ、どれほど嫌なことであっても、辛抱するしかない。泉水は涙の滲んだ眼をしばたたく。庭の桜の淡い紅がおぼろにかすんで見えた。
その翌日の昼下がり、泉水は再び随命寺に詣でた。数日前にはまだわずかに咲き始めたばかりの花は既に満開を迎えていた。うららかな春の陽光が桜に降り注ぎ、隙間もないほどに重なり合って咲いた花の影が大池の面に映っていた。
時折風もないのに、はらはらと花びらが舞い、水面に落ちる。池に放たれた鯉が軽く跳ね、水底へと消えていく。波紋の上に、薄紅色の花びらが音もなく降る。薄紅の花片を浮かべた水面が春光を弾き、乱反射している様は、まさに一枚の輝く布を見ているかのようだ。
花の天蓋の下で、あまたの人々が思い思いの刻を過ごしている。幼子を連れた若夫婦、見るからに微笑ましい恋人たち、酒をしたたかに呑んで陽気にはしゃぐ男たち―、いずれもが大切な人や仲間と至福の刻を過ごしていた。
そんな幸せそうな人たちを見ていると、余計に寂寥感と空しさが押し寄せてきて、泉水はたまらなくなった。一人、賑わう花見客の間をすり抜け、人々の喧噪から逃れるように走り去った。
気が付けば、絵馬堂の前に佇んでいた。小さな朱塗りの鳥居をくぐり、百度石を辿った先に、こじんまりとしたお堂がひっそりと佇んでいる。あまたの人々の願いのこもった絵馬が格子状になった観音開きの扉に掛けられている。びっしりと絵馬が掛かっているせいで、扉の枠内の格子さえ見えないほどだ。
―とうとう、来てしまった。
泉水はその場にぼんやりと立ち尽くしながら無意識の中に思った。
お家の存続は単に榊原氏の家の問題ではなく、多くの家臣やその家族の命運すら左右する。それに、泉水一人の個人的な感情を差し挟むべきではなかった。たとえ、どれほど嫌なことであっても、辛抱するしかない。泉水は涙の滲んだ眼をしばたたく。庭の桜の淡い紅がおぼろにかすんで見えた。
その翌日の昼下がり、泉水は再び随命寺に詣でた。数日前にはまだわずかに咲き始めたばかりの花は既に満開を迎えていた。うららかな春の陽光が桜に降り注ぎ、隙間もないほどに重なり合って咲いた花の影が大池の面に映っていた。
時折風もないのに、はらはらと花びらが舞い、水面に落ちる。池に放たれた鯉が軽く跳ね、水底へと消えていく。波紋の上に、薄紅色の花びらが音もなく降る。薄紅の花片を浮かべた水面が春光を弾き、乱反射している様は、まさに一枚の輝く布を見ているかのようだ。
花の天蓋の下で、あまたの人々が思い思いの刻を過ごしている。幼子を連れた若夫婦、見るからに微笑ましい恋人たち、酒をしたたかに呑んで陽気にはしゃぐ男たち―、いずれもが大切な人や仲間と至福の刻を過ごしていた。
そんな幸せそうな人たちを見ていると、余計に寂寥感と空しさが押し寄せてきて、泉水はたまらなくなった。一人、賑わう花見客の間をすり抜け、人々の喧噪から逃れるように走り去った。
気が付けば、絵馬堂の前に佇んでいた。小さな朱塗りの鳥居をくぐり、百度石を辿った先に、こじんまりとしたお堂がひっそりと佇んでいる。あまたの人々の願いのこもった絵馬が格子状になった観音開きの扉に掛けられている。びっしりと絵馬が掛かっているせいで、扉の枠内の格子さえ見えないほどだ。
―とうとう、来てしまった。
泉水はその場にぼんやりと立ち尽くしながら無意識の中に思った。