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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第11章 花

 ここに来るつもりは、なかったのだ。なのに、大池の汀でさも愉しげに笑いさざめいて桜を愛でる人々を見ている中に、つい現実から逃れたくなった。だが、何故、そのために選んだのがこの場所であったのか。自分でも知らぬ間にここに脚が向いていた。
 唐突に澄んだ声音が耳奥に響く。
―私は待っていますよ。
 あの美しく妖しい僧に別れ際に囁かれた科白、思えば、あのひと言に導かれ、まじないの言葉に吸い寄せられるかのように、ここに来てしまったのかもしれない。
 その刹那、もう一人の自分が叫んだ。
 帰るのだ、帰らなければならない、ここは、私の来るべき場所ではない。
 泉水はハッと現(うつつ)に戻った。まるで悪い夢を見ていたような心地がする。自分はやはり、どうかしていたのだ、早く、早く帰らなければ。泰雅の待つあの榊原の屋敷に。
 そう思って踵を返しかけたその時。ふいに背後から逞しい腕に抱きすくめられた。
「やはり、来てくれましたね」
 泉水は身を強ばらせた。あの一見、華奢にも見えた若い僧の一体どこに、こんな力が隠されていたのだろう。
 違う、この男は断じて祐次郎ではない。祐次郎は、こんなに―剣や槍を扱い慣れたような筋肉質の手ではなかった。これは、間違いなく刀を持つことに慣れた、鍛え抜かれたもののふの手だ。
 泉水の腰と胸に回された手に力がこもる。
「―!」
 泉水は渾身の力で僧の屈強な身体を押しのけ、離れた。
「おやおや、これは嫌われたものだ」
 僧が唇の端を引き上げる。泉水の視線は思わず、その端整な面に釘づけになった。たった今、この男が祐次郎ではない、やはり全くの別人なのだと思ったばかりなのに、脆くもその自信は揺らぎ始めている。
 形の良い額、すっきりとした鼻梁、―やはり、似ていた。いや、似ているというひと言だけでは到底片づけられないほど酷似している。泉水がじっと見つめていると、僧は忍び笑いを洩らしながら、ゆっくりと近付いてきた。
「そんなに私は似ていますか? あなたの知っている誰かに」
「あなたは一体、誰なの?」
 鋭く問うた泉水に、僧は妖艶に微笑んで見せた。

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