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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第11章 花

「私の名がそんなにお知りになりたいのですか? 良いでしょう、お教えしますよ。私の名は徳(とく)円(えん)」
「―徳円」
 泉水が小さく呟くと、徳円と名乗った若き僧は笑って言った。
「今度逢うときは、必ずあなたを私のものにします。もう帰しませんよ。覚悟しておきなさい」
 そう言いおくと、くっくっと喉の奥で低く笑いながら、悠然と歩み去っていった。まるで本当に悪夢を見ていたかのようだった。
 頭上高く響いた鳥の鳴き声が、何故かひどく遠く、場違いなものに思えた。

 その夜、いつものように泰雅が泉水の寝所を訪れた。泰雅の裸の胸に引き寄せられ、頬を押しつけた泉水に、ふと泰雅が問う。
「泉水、どうした、今宵は随分と元気がないな。いや、ここのところ、ずっと塞ぎ込んでいるようだぞ? 何か、あったのか?」
 やはり、鋭い泰雅には気付かれていたらしい。泉水が依然として良人の逞しい胸に顔を伏せたままでいると、泰雅の大きな手がそっと泉水の黒髪に触れた。
「和子のことなら、案ずることはない。そなたはまだ十八ではないか、しかも祝言を挙げて漸く一年が過ぎたばかりなのだ。これより、子は幾らでも生まれよう。心配致すな、俺は、お前以外の女を側に置くつもりはない。俺の子を、榊原の世継を生むのは、泉水、そなただけだ」
「殿、それでは、お家のためにはなりませぬ」
 自分を見上げる泉水の眼に滲んだ涙を、泰雅は見逃さなかった。
「脇坂が何を申したのかは知らぬ。ま、大方の見当はついているがな。もう一度申しておくが、俺は生涯、側室を持つ気はない。もし、万が一、そちに子ができぬときは、分家筋から養子を迎えれば良い。ただそれだけのことよ。俺が〝妻〟と呼ぶのは今も、これからも泉水だけなのだからな」
 泰雅の言葉は労りに満ちていて、泉水の心の奥底に滲みた。あたかも乾いた砂に水が滲み込むように泉水の心を潤してゆく。
「殿、泉水は嬉しうございます。数ならぬ身に、そのようなお言葉を賜り―」
 そっと涙をぬぐう妻の背を泰雅は薄い寝衣越しに愛おしげに撫でた。

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