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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第12章 幻花(げんか)

 それにしても、この静かに泉水を見下ろす阿弥陀如来と、昨夜見たあの般若の男とのこの表情の違いはどうだろう。どこまでも静謐さを身に纏い、慈しみに溢れたまなざしを向ける阿弥陀と片や憤怒の形相で、対する者すべてに荒れ狂う怒りを発散させようとする般若。
 全く対極にあるようでいて、しかしながら、泉水は、そのどちらもが内面に同じものを秘めているように見えてならなかった。それは、哀しみ―、この現し世に生きるすべての生きものに向けられた哀しみであった。
 阿弥陀如来は、もがき、苦しみ、喘ぎながら、それでも懸命に生きてゆこうとする衆生の姿を捉える。その深いまなざしには、確かに、そんな人間たちに向けられた慈愛と憐れみが込められている。
 一方、凄まじいまでの怒りをぶつけようとする般若のいかにも怖ろしげな両の眼(まなこ)にも哀しみは満ちている。烈しく怒りに燃え立つ眼(まなこ)の奥には、これほどまでに怒らなければならない我が身の運命(さだめ)への哀しみが潜んでいる。般若が抱(いだ)いている哀しみは、自らの背負った哀しき業に対するものに他ならない。
 だが、何故、般若はそこまで怒り狂うのだろう? 何が彼をそこまで底知れぬ絶望と怒りに突き落としてしまったのか。泉水がいちばん知りたいと思うのは、その因(もと)であった。
 だからこそ、こうして、抵抗らしい抵抗もせずにあの般若面の男―徳円に付いてきた。
 ふいに手許が暗くなった。見上げると、小窓から見えていた満月に薄雲がかかっている。ここに連れられてきて、既に次の日の夜を迎えていた。明かり取りの窓のお陰で、朝夕の区別はつくのがせめてもの救いであった。
 泉水は動きを止め、背筋を伸ばし、軽く吐息をついた。月が雲に閉ざされてしまったせいで、堂内の闇が俄(にわか)に濃くなった。堂の中に月光の他、明かりらしいものは何一つない。
 身動きしようにもできない。視界がきかなくなったせいで、心に溜まっていた焦燥が一挙に膨らみ、溢れそうになる。駄目だ、焦ってはならない。慎重に落ち着いて、落ち着かなければならない。どこかに、突破口が必ずあるはず。どんなときでもけして諦めてはいけないよと幼い頃、父源太夫がよく言っていた。
 雲が風に流され、再び満月が現れる。明るさを得て、泉水はまずどこか出口になりそうな場所を探そうとして顔を上げて、息を呑んだ。

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