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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第1章 《槇野のお転婆姫》

 あの美しい男は桜の花が見せた一瞬の幻なのだろうか。だが、そんなことがありえようはずがないことも判っていた。
 あの声が、わずかに微熱を帯びたようなまなざしが幻であったとは到底思えない。あれは、確かに現(うつつ)の出来事であったはず。
 生まれて初めて知った恋であった。
 また風が吹き、桜の樹がざわめく。
 雪のように舞う花びらを浴びながら、泉水はいつまでもその場に立ち尽くしていた。白い頬を流れる涙の雫が春の潤んだ大気に溶けて、散った。

 その瞬間から、泉水にとっては辛い日々が始まった。定められたままに嫁いだ我が身に、よもや恋やひとめ惚れといったものが訪れるとは夢にだに考えたことはなかった。
 数日後、泉水は再び時橋の眼を盗んで、屋敷を抜け出した。あの場所に行ったからとて、男に逢えるはずはないと思っていたけれど、行かずにはいられなかった。確かな約束を交わしたわけでもないのに、あそこにゆけば、何かが起こりそうな気がしてならず、せき立てられるようにして和泉橋のたもとへ行った。
 花はそろそろ散り始め、ささやかな流れに無数の花びらが浮かび、ゆっくりと流れてゆく。泉水はそのあてどなく漂う花びらを眼で追った。
 あの男が来るはずもないことは判っている。それでも、待たずにはおれない我が身の愚かさを自分で嘲笑った。
 どれくらいの間、そうしていただろう。
 多分、ゆうに一刻はその場所にいたはずだ。
 そっと肩に手を乗せられ、泉水は愕いて振り向いた。今日の泉水は男姿ではなく、屋敷にいるときのように紅い小袖を着ている。お気に入りの薄紅色の花びらが全体に散った柄だ。
「ここに来れば、逢えるのではないかと思った」
 深い声に、心まで吸い込まれそうになる。
 この男は声までも人を魅了する。
「今日はまた別人のようだな、綺麗だ」
 男は川面に当たって弾ける春の陽に眩しげに眼を細めた。
 あからさまに賞められ、泉水は紅くなり、そして、涙がつうっと白い頬をつたう。
「どうした、俺が何か気に障ることでも言ったか? 大抵の女は賞めれば、皆歓ぶものだが」
 男はたいそう慌てた様子。

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