
胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第1章 《槇野のお転婆姫》
泉水は泣くまいとしても、どうしても涙が後から後から溢れ出す。
「ごめんなさい、私、こんなに泣き虫なんかじゃなかったのに」
泉水はまだ胸の奥に灯った小さな光が恋とは知らないのだ。無垢なお転婆姫は初恋にただただ戸惑うばかりであった。
「泣くな」
ふいに引き寄せられ、泉水は一瞬身を強ばらせた。
「俺は女の涙は苦手なのだ。殊に、そなたのような可愛い娘に泣かれたら、どうしたら良いか判らなくなる」
男が女の扱いに慣れているのは、男女のことにはとんと疎い泉水にだとて知れた。
そのことが喉にかかった魚の小骨のように気がかりではあったけれど、そんなこともどうでも良いと思ってしまうほど、泉水は男に惹かれていた。
「威勢が良いかと思えば、急に紅くなったり泣き出したり、ころころと表情の変わる娘だな。―可愛い」
顎を掴んで持ち上げられると、間近に男の貌があった。互いの息遣いさえ聞こえそうなほどに、端整な貌が迫っている。
思わずうつむこうとすると、男が囁いた。
「眼をそらさないで」
泉水はおずおずと男を見た。その瞳には本能的な怯えが浮かんでいた。男が微笑んだ。
「怖がることはない」
男の貌が近づいてくる。
かすめるような一瞬の口づけが泉水には現の出来事とは思えなかった。
男は、泉水にそれ以上のことをしようとはしなかった。二人はただ川岸に並んで座り、ひたすら川面を眺め続けた。何を話すわけでもなく、時折吹く風に花びらが舞い、水面に吸い込まれては漂い流されてゆくのを見送った。
春の陽が翳り、西の空の端が茜色に染まる頃、男は名残惜しげに立ち上がった。
「また必ずここで逢おう」
男は泉水を眩しげに見つめて言った。
太陽が地平の向こうに沈み、薄い夕闇が足許に這い寄ろうとする時分になっていた。男は幾度も泉水の方を振り返りながら、道の向こうに消えてゆく。やがて、その上背のある後ろ姿は角を曲がり見えなくなる。
名前さえ知らない、美しい男。
また、逢えるのだろうか。次は、いつ逢えるのだろうか。
「ごめんなさい、私、こんなに泣き虫なんかじゃなかったのに」
泉水はまだ胸の奥に灯った小さな光が恋とは知らないのだ。無垢なお転婆姫は初恋にただただ戸惑うばかりであった。
「泣くな」
ふいに引き寄せられ、泉水は一瞬身を強ばらせた。
「俺は女の涙は苦手なのだ。殊に、そなたのような可愛い娘に泣かれたら、どうしたら良いか判らなくなる」
男が女の扱いに慣れているのは、男女のことにはとんと疎い泉水にだとて知れた。
そのことが喉にかかった魚の小骨のように気がかりではあったけれど、そんなこともどうでも良いと思ってしまうほど、泉水は男に惹かれていた。
「威勢が良いかと思えば、急に紅くなったり泣き出したり、ころころと表情の変わる娘だな。―可愛い」
顎を掴んで持ち上げられると、間近に男の貌があった。互いの息遣いさえ聞こえそうなほどに、端整な貌が迫っている。
思わずうつむこうとすると、男が囁いた。
「眼をそらさないで」
泉水はおずおずと男を見た。その瞳には本能的な怯えが浮かんでいた。男が微笑んだ。
「怖がることはない」
男の貌が近づいてくる。
かすめるような一瞬の口づけが泉水には現の出来事とは思えなかった。
男は、泉水にそれ以上のことをしようとはしなかった。二人はただ川岸に並んで座り、ひたすら川面を眺め続けた。何を話すわけでもなく、時折吹く風に花びらが舞い、水面に吸い込まれては漂い流されてゆくのを見送った。
春の陽が翳り、西の空の端が茜色に染まる頃、男は名残惜しげに立ち上がった。
「また必ずここで逢おう」
男は泉水を眩しげに見つめて言った。
太陽が地平の向こうに沈み、薄い夕闇が足許に這い寄ろうとする時分になっていた。男は幾度も泉水の方を振り返りながら、道の向こうに消えてゆく。やがて、その上背のある後ろ姿は角を曲がり見えなくなる。
名前さえ知らない、美しい男。
また、逢えるのだろうか。次は、いつ逢えるのだろうか。
