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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第12章 幻花(げんか)

 徳円の瞳が辛辣な光を乗せている。
「煩いッ、あなたに何が判る。私がこの世から消されたのと引きかえに、兄はすべてを手に入れた。兄の得た幸せは、私が生命を奪われたその代償として兄に与えられたもの。―兄さえいなければ、私は自らの存在を抹消されることもなく、あの家の、堀田の家の倅としてつつがなく成長していたはずだ。兄さえいなければ、祐次郎さえいなければと、幾度思ったことか。兄の手に入るはずだったものは、本来私のものでもあるのだ。父母の愛情も、そして、あなたも」
 その時、突如として遠くで雷鳴が轟いた。
 先刻までの冴え渡った月夜が嘘のように、ゴロゴロと獣の咆哮にも似た不気味な唸り声を低く上げている。
 泉水は思わず固まってしまった。お転婆姫と呼ばれ始めたやんちゃな昔から、たった一つ苦手なのが雷なのだ。
 泉水の脳裡に、唐突に幼い日の記憶が蘇る。二人で満開の椿を眺めていた最中、急に雨が降り出した、あの日。祐次郎に手を引かれて駆け込んだ庭の四阿でいっときの雨宿りをした。あのときも、やはり、こんな風に烈しい雷鳴を聞いたような気がする。
 怯えて小さな身体を震わせる泉水を、祐次郎はそっと抱きしめてくれたのだ。祐次郎の胸は限りなく広く温かく、安らげるように思え、泉水は一瞬、怖さも忘れた。あれは、祐次郎が亡くなる一年前の早春の昼下がり、祐次郎は十三歳、泉水は十歳のことだった。
 泉水の瞼でつややかな紅色の花が揺れる。祐次郎と一緒に見た花、祐次郎が死んだ朝にも盛りと咲き誇っていた花。
 想いに耽る泉水の耳を、雨音が打つ。
 雨が降ってきたようである。次第に強くなってゆく雨がかえってその場に満ちた静寂を際立たせる。
 夜気の中に雨の匂いが混じった。雨脚が強まるにつれ、雷鳴も近くなってくるようだ。泉水は不安を宿した瞳で、小窓越しにわずかに切り取られた夜の空を見上げる。
 その時。稲妻が光り、雨の粒が一瞬、蒼く浮かんだ。
 閃光が束の間、御堂の内を照らす。泉水を見つめる徳円の貌もまた、蒼く染まる。
 その整った貌があの日の祐次郎とごく自然に重なった。泉水はまるで魅入られたかのように美貌の僧を見つめ返す。祐次郎を思わせる男の貌がゆっくりと近づいてくる。
 しんと冷たい唇が泉水の唇に軽く触れる。

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