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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第12章 幻花(げんか)

 静まり返った表情からは、何の感情も窺えない。
「四、五、六―」
 泉水は想いを振り切るかのように、さっと身を翻す。背後で徳円の声が途切れることなく続いていた。
「七、八、九―」
 〝十〟の数を聞く前に、泉水は御堂の扉を開け、外に飛び出た。そして、そのまま、雨の中をひたすら駆け抜けた。

 これは後で知ったことだが、泉水が徳円に軟禁されていたのは随明寺の阿弥陀堂であった。徳円から解放されて、あの堂を出て夢中で走っている中に、ふと周囲の景色が見憶えのあるものだと気付いたのである。
 しかし、絵馬堂ならばともかく、阿弥陀堂の方までは滅多と脚をのばさないため、迂闊にも気付かなかったらしい。
 ずぶ濡れになって戻ってきた泉水を見て、もちろん、時橋は泣いた。泰雅は、ただ黙って抱きしめてくれた。
 泉水は今回の事件のすべてを、泰雅にだけは打ち明けた。良人である泰雅には、隠し事は一切したくなかったからだ。泰雅は泉水の話に黙って耳を傾けていたけれど、流石に祐次郎に双子の弟がいたことには愕いたようだった。
「世の中は全っく判らねえもんだな」
 溜息混じりにそう言っていた。
 ただ、泰雅にも話さなかったことはある。
 雨に降り込められた御堂の中で徳円と交わした一瞬の口づけ、それに徳円が別れ際に囁いた言葉。
 その二つに関してだけは、いかにしても泰雅には伝えられなかった。
―たった一つだけ思いどおりにはいかなかったことがあります。それは、私があなたを愛してしまったことです。
 あの時、確かに徳円はそう言った。それは、やはり泰雅に伝えるべき話ではないだろう。
「ごめんなさい。また、心配かけてしまって。やっぱり、お怒りでございますよね?」
 思わず眼だけで問うと、泰雅も眼だけで温かな微笑を返した。それが、良人なりの精一杯の応えなのだと、泉水は受け止めた。


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