
胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第14章 夢を売る男
大好きな、愛する良人との間に和子をと願う気持ちは日毎に強くなるのだけれど、泉水には一向にその兆(きざし)が見られない。乳母の時橋はまだ若いゆえと慰めてくれるが、もしや自分は一生子宝の授からぬ身ではないか、そんな不安がふと胸をかすめることもあった。
だが、どうも、この絵はそういった泉水自身の未来を意味するものではないように思えてならない。些末なことだが、榊原の屋敷の庭は広く、四季折々の樹や花が植わってはいるけれど、どこを探しても藤の花はないのだ。泉水がこの絵が自分の将来とは直接には拘わりはないと判断したのは、我が身の勘と藤の花が屋敷の庭にないという二つの理由からだった。これは単純だが、重要な決め手のように思われた。
確かに心温まる風景に他ならなかったけれど、泉水は何かこの絵に胸騒ぎを憶えずにはいられなかった。それに、何より、この絵の中の女の子の顔には見憶えがあるような―。かといって、では、いつ、どこで逢ったのかと問われれば、はきとは応えられないのだが。
では、何故、この幸せそのものの親子の絵を見て、不吉な胸騒ぎを感じるのか。その理由さえ判らない。どうも、あの夢五郎という不思議な男に出逢ってから、すべてが調子が狂ってしまったようだ。夢五郎と名乗ってはいたけれど、恐らくは真の名ではあるまい。
恋ではない。しかし、瞬く間に泉水の心にどっかりと棲みついてしまった男であった。もし泰雅が知れば、ただでは済まないだろう。あれで、泰雅はなかなかに嫉妬深いのだ。もっとも、当の泉水本人は、泰雅からそれほどまでに強く愛されていることをいまだに自覚していない。
「夢売りの夢五郎か。どこまでも人を食った名前よね。でも、かなり変わってたけど、悪い人には見えなかった」
一人で呟き、木の札を懐におさめると、再び歩き出す。夢五郎の言葉を頭から信じたわけではない。むしろ、半信半疑であった。
夢や占いなぞというものは、婦女子の信じるものであって、泉水はそんな迷信はあまり信じない方だ。神仏に対する信仰心はそれなりに持ち合わせてはいるものの、理屈や論理で割り切れないことは、大方はまやかしや偽物であると考えている。だが、あの夢五郎の言葉には、どこか聞く者を吸い寄せるような、その気にさせてしまうような魔力めいたものがあった。
だが、どうも、この絵はそういった泉水自身の未来を意味するものではないように思えてならない。些末なことだが、榊原の屋敷の庭は広く、四季折々の樹や花が植わってはいるけれど、どこを探しても藤の花はないのだ。泉水がこの絵が自分の将来とは直接には拘わりはないと判断したのは、我が身の勘と藤の花が屋敷の庭にないという二つの理由からだった。これは単純だが、重要な決め手のように思われた。
確かに心温まる風景に他ならなかったけれど、泉水は何かこの絵に胸騒ぎを憶えずにはいられなかった。それに、何より、この絵の中の女の子の顔には見憶えがあるような―。かといって、では、いつ、どこで逢ったのかと問われれば、はきとは応えられないのだが。
では、何故、この幸せそのものの親子の絵を見て、不吉な胸騒ぎを感じるのか。その理由さえ判らない。どうも、あの夢五郎という不思議な男に出逢ってから、すべてが調子が狂ってしまったようだ。夢五郎と名乗ってはいたけれど、恐らくは真の名ではあるまい。
恋ではない。しかし、瞬く間に泉水の心にどっかりと棲みついてしまった男であった。もし泰雅が知れば、ただでは済まないだろう。あれで、泰雅はなかなかに嫉妬深いのだ。もっとも、当の泉水本人は、泰雅からそれほどまでに強く愛されていることをいまだに自覚していない。
「夢売りの夢五郎か。どこまでも人を食った名前よね。でも、かなり変わってたけど、悪い人には見えなかった」
一人で呟き、木の札を懐におさめると、再び歩き出す。夢五郎の言葉を頭から信じたわけではない。むしろ、半信半疑であった。
夢や占いなぞというものは、婦女子の信じるものであって、泉水はそんな迷信はあまり信じない方だ。神仏に対する信仰心はそれなりに持ち合わせてはいるものの、理屈や論理で割り切れないことは、大方はまやかしや偽物であると考えている。だが、あの夢五郎の言葉には、どこか聞く者を吸い寄せるような、その気にさせてしまうような魔力めいたものがあった。
