胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第2章 《戸惑う心》
《戸惑う心》
それから更にひと月。
泉水は何度もあの場所―和泉橋に行ってみたが、男には逢えないまま日が過ぎた。
やはり、あれは気紛れな春が見せた束の間の夢、まぼろしだったのだろうか。いや、男の存在そのものというよりは、男の気持ちがほんの気紛れだったのだろう。
男は優しげで物腰も穏やかではあったけれど、女の扱いは心得ているようであった。あの艶な内儀を見ていた舌なめずりするような眼には、明らかに好色そうな光が宿っていた。あんな遊び慣れ、女を知り尽くした男にとっては、通りすがりの小娘をほんの少しからかってみただけのことにすぎないに相違ない。
泉水の中には次第に諦めがひろがっていった。所詮、あの男にとって、自分なぞ女の数の中にも入らなかったのか。もう二度とあの男に逢うこともないだろう。
これで良かったのだと思う反面、空しさとやるせなさが胸の奥で渦巻いた。
卯月も晦日にさしかかった日の昼下がり、泉水は自室に籠もっていた。ここのところ、お忍びで町へ出ることもなく、ずっと部屋に籠もりきりだ。いつもは元気が良すぎるほどの泉水のこの変貌ぶりに、時橋はかえって身体の具合が悪いのかと心配している。
榊原屋敷においても他の武家屋敷と同様、奥向きと表は厳然と隔てられており、奥向きは当主の泰雅の正室たる泉水が女主人であり、表は泰雅が政務を執る場所、男たちの居場所である。奥向きには泰雅以外の男子は一切禁制であり、女たちは泉水を初めとして皆奥向きに住まう。
泰雅の母景容院は、先代、つまり泰雅の父泰久の逝去と同時に屋敷を出て、現在は別邸で起居している。この景容院こそが現将軍の異母妹を母に持つ高貴な血筋であった。ちなみに、景容院は前老中水野(みずの)大膳(だいぜん)の娘であり、大膳の内室が将軍家の妹に当たる。
本来ならば、泰雅と泉水が褥を共にするはずの寝所も奥にある。もっとも、現在、泰雅の奥方の泉水の許へのお渡りは一切ないゆえ、夫婦の寝所は全く無用ではあったが。
泉水の居室はその奥向きでも最も奥まった一角に位置しており、十畳はある居間と続きになった寝室、更に小さな控えの間がある。
それから更にひと月。
泉水は何度もあの場所―和泉橋に行ってみたが、男には逢えないまま日が過ぎた。
やはり、あれは気紛れな春が見せた束の間の夢、まぼろしだったのだろうか。いや、男の存在そのものというよりは、男の気持ちがほんの気紛れだったのだろう。
男は優しげで物腰も穏やかではあったけれど、女の扱いは心得ているようであった。あの艶な内儀を見ていた舌なめずりするような眼には、明らかに好色そうな光が宿っていた。あんな遊び慣れ、女を知り尽くした男にとっては、通りすがりの小娘をほんの少しからかってみただけのことにすぎないに相違ない。
泉水の中には次第に諦めがひろがっていった。所詮、あの男にとって、自分なぞ女の数の中にも入らなかったのか。もう二度とあの男に逢うこともないだろう。
これで良かったのだと思う反面、空しさとやるせなさが胸の奥で渦巻いた。
卯月も晦日にさしかかった日の昼下がり、泉水は自室に籠もっていた。ここのところ、お忍びで町へ出ることもなく、ずっと部屋に籠もりきりだ。いつもは元気が良すぎるほどの泉水のこの変貌ぶりに、時橋はかえって身体の具合が悪いのかと心配している。
榊原屋敷においても他の武家屋敷と同様、奥向きと表は厳然と隔てられており、奥向きは当主の泰雅の正室たる泉水が女主人であり、表は泰雅が政務を執る場所、男たちの居場所である。奥向きには泰雅以外の男子は一切禁制であり、女たちは泉水を初めとして皆奥向きに住まう。
泰雅の母景容院は、先代、つまり泰雅の父泰久の逝去と同時に屋敷を出て、現在は別邸で起居している。この景容院こそが現将軍の異母妹を母に持つ高貴な血筋であった。ちなみに、景容院は前老中水野(みずの)大膳(だいぜん)の娘であり、大膳の内室が将軍家の妹に当たる。
本来ならば、泰雅と泉水が褥を共にするはずの寝所も奥にある。もっとも、現在、泰雅の奥方の泉水の許へのお渡りは一切ないゆえ、夫婦の寝所は全く無用ではあったが。
泉水の居室はその奥向きでも最も奥まった一角に位置しており、十畳はある居間と続きになった寝室、更に小さな控えの間がある。