胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第2章 《戸惑う心》
夫婦の寝所以外にも、当主が奥方の寝室を直接訪ね、そのまま閨を共にすることもあるのだが、現当主の場合はそんなことはむろんない。桜の花も散り、外は新緑が眼に滲み入る季節となっていたが、泉水は部屋の障子を開けることもなかった。ただ日がな座り込んで、虚ろなまなざしを宙にさまよわせている。
時橋はついに泉水が正気を手放してしまったのかと危ぶんだ。
―お可哀想に、姫さまはご夫君であらせられる殿のあまりにも酷いお仕打ちにとうとうこのような有様になってしまわれた!!
時橋は覚悟を決めた。泉水からはけして内情を実家へ知らせてはならぬと言いつけられていたが、この際、独断で榊原家での泉水の処遇を槇野源太夫に書状で知らせることに決めたのだ。
後でどれほど泉水に叱責されようと構わない。このままでは、泉水が、姫さまがあまりに哀れであった。
そう一途に思い定め、泉水には内密にひそかに槇野源太夫に宛てて書状をしたため、信用できる小者に持たせて源太夫の許まで届けさせるように取りはからった。その用事を済ませて戻ってきた時、既に泉水の部屋はもぬけの殻であった。
ここのところの様子が尋常ではないだけに、けして眼を離さぬようにしていたのだが、ほんの一瞬の隙をついて、泉水は部屋を抜け出したようであった。あのご様子では、もしやまたいつものごとく屋敷をひそかに抜けだし町中を徘徊しにゆかれたとは思えぬけれど―。
時橋は大切な姫がよもや早まったことだけはせねばと、不安で気が気ではなかった。
時橋が色を失っていた同じ頃、泉水は何のことはない同じ榊原屋敷にいた。部屋を出て、ゆく当てもなくふらふらと縁廊を歩いている中に、ふと庭が眼に入った。
そこはこの世のものとも思えぬ美しい眺めがひろがっていた。
あまたの芍薬の花が群れ咲いている。泉水はまるで花に魅せられた蝶のように、花に見惚れた。薄様の紙を幾重にも折り畳んだものを重ね合わせたような花びらたち―繊細さと色香漂わせる妖艶さを兼ね備えた美しさは、まさに自然の造形した奇蹟としか言いようがない。
一本だけでも華やかな存在感のある花なのに、それらが幾本となく群れ固まって咲いている光景には、ただただ圧倒されるばかりであった。
時橋はついに泉水が正気を手放してしまったのかと危ぶんだ。
―お可哀想に、姫さまはご夫君であらせられる殿のあまりにも酷いお仕打ちにとうとうこのような有様になってしまわれた!!
時橋は覚悟を決めた。泉水からはけして内情を実家へ知らせてはならぬと言いつけられていたが、この際、独断で榊原家での泉水の処遇を槇野源太夫に書状で知らせることに決めたのだ。
後でどれほど泉水に叱責されようと構わない。このままでは、泉水が、姫さまがあまりに哀れであった。
そう一途に思い定め、泉水には内密にひそかに槇野源太夫に宛てて書状をしたため、信用できる小者に持たせて源太夫の許まで届けさせるように取りはからった。その用事を済ませて戻ってきた時、既に泉水の部屋はもぬけの殻であった。
ここのところの様子が尋常ではないだけに、けして眼を離さぬようにしていたのだが、ほんの一瞬の隙をついて、泉水は部屋を抜け出したようであった。あのご様子では、もしやまたいつものごとく屋敷をひそかに抜けだし町中を徘徊しにゆかれたとは思えぬけれど―。
時橋は大切な姫がよもや早まったことだけはせねばと、不安で気が気ではなかった。
時橋が色を失っていた同じ頃、泉水は何のことはない同じ榊原屋敷にいた。部屋を出て、ゆく当てもなくふらふらと縁廊を歩いている中に、ふと庭が眼に入った。
そこはこの世のものとも思えぬ美しい眺めがひろがっていた。
あまたの芍薬の花が群れ咲いている。泉水はまるで花に魅せられた蝶のように、花に見惚れた。薄様の紙を幾重にも折り畳んだものを重ね合わせたような花びらたち―繊細さと色香漂わせる妖艶さを兼ね備えた美しさは、まさに自然の造形した奇蹟としか言いようがない。
一本だけでも華やかな存在感のある花なのに、それらが幾本となく群れ固まって咲いている光景には、ただただ圧倒されるばかりであった。