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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第15章 真(まこと)

―おはるさん、あなたは二年前に、おつやちゃんを捨てたけれど、今また、あの子を見捨てるんですか? たった六つの幼い子があなたを探して、毎日江戸の町を脚を棒にして歩き回ってるんですよ? あなたに逢いたい、ひとめ逢って、あなたがあの子を捨てたんではないと、あなた自身の口から聞きたいのだと言っています。おつやちゃんは今でもおはるさんを信じています。優しかった、大好きなおっかさんが自分を捨てるはずがない、おはるさんが家を出たのは何かのっぴきならぬ事情があったのだと言っています。それを、あなたはまた、切り捨てるのですか? そんな子は知らない、自分とは何の拘わりもないと言い切れるのですか!?
 重たい沈黙が落ちた。
 ふいに、おはるが振り絞るように言った。
―私は、幸せになっちゃあ、駄目なんですか?
 眼を見開いた泉水に、おはるが哀しみに揺れる眼を向けた。その眼は、おっかさんに逢いたいと泣いていたおつやの眼にそっくりだった。
―亭主が死んじまって、頼る人も何もない世間に放り出された私は、どんなことをしてでも、生きてゆくしかなかった。それも、私だけじゃない、私には娘もいたし、おっかさんもいた。生きるためには、どんなことでもしましたよ。本当に、地獄のような毎日だった。そんな時、今の亭主が現れたんです。あの人は私にとって最後の頼みの綱でした。地獄に堕ちた亡者に仏さまが下された蜘蛛の糸のように、あの人が私を救いに来てくれたのだと思いました。今、この人に縋らなければ、私は永遠にこの生き地獄から抜け出せないと思ったんです。むろん、亭主に惚れてはいました。でも、その気持ち以上に、私はあの頃の生活から逃げ出したいと願ったんです。―それが、結局、娘を捨てたのだと言われても、仕方のないことです。
 おはるは、きついまなざしで言った。
―それでも! たとえ何度同じことになったとしても、私は今の道を選びます。誰だって、地獄になんて、いたくはないでしょう。幸せになるためなら、なれるのなら、何でもします。折角、仏さまが私にくれた機会を自分のものにしたからって、それが悪いことなんですか? 私は幸せになっちゃあ、いけないとでも言うんですか?
 まただ、と思った。おはるまで、おさんやおもんと同じことを言う。
―仏さまが私にくれた機会を自分のものにしたからって、それが悪いことなんですか?

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