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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第15章 真(まこと)

 そろそろ帰らなくてはならない。今日は朝屋敷を出てから、一度も帰っていない。ここまで遅くなることは滅多とないゆえ、時橋がさぞ心配しているに違いない。
 そう思うと、心は急く。ここから榊原の屋敷はすぐだ。この川にかかる小さな橋を境として、商人の集う町人町と閑静な武家屋敷町とに分かれるのだ。泉水の良人榊原泰雅の屋敷もその和泉橋町の一角にある。
 歩き出そうとしたその時、誰かに肩を掴まれた。
 思わず小さな悲鳴が洩れる。
「姐さん」
「あなたは―」
 振り向いた泉水の面に軽い愕きがひろがる。
 薄い闇の中に佇むのは、数日前に出逢った夢売りの男であった。今夜もまた、例の派手な着物を着流し、細帯を前に結んで、だらりと垂らしている。
「こんなところで逢うとは、こいつァはまた奇遇だねえ。姐さん、さては、私のことを忘れられなかったんじゃないのかな? だから、憐れんだ御仏が引き合わせて下さったとか」
 この男、やっぱり、思い切り勘違いしている。かなり、いや、もの凄く怪しい。
「いや、実はね、私も姐さんのことを忘れられなくてさ。また逢いたいものだと考えていたんだ。でも、この広いお江戸で、名前も知らぬお人にまた、あいまみえるのは、至難の業だってね。泣く泣く諦めたんだけど」
 何が泣く泣く諦めたんだけど―、だ。
 こいつは実は、良人泰雅も蒼ざめるほどの女たらしだったりするかも?
 泉水の胸中なぞまるで頓着せず、夢五郎は真顔でそんなことを言う。
「あのね、夢五郎さん。あなたがこの間、自分で言ってたじゃない。あなたは女には趣味はないって。私は確かにこの耳で聞きましたけど?」
 睨みつけてやると、夢五郎は朗らかに声を上げて笑った。

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