胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第16章 嵐
泉水はホウと小さな息を吐き出し、その場に座り込んだ。
「時橋、どうやら大変なことになったようじゃの」
呟きが終わらぬ中に襖が静かに開き、眼前に乳母の時橋が畏まっていた。
「さようでございますね。上さまはいまだにお世継ぎがいらっしゃいませぬゆえ」
それから先は口に出さずとも、互いに考えていることは同じだと判る。
現将軍徳川家宗公は、おん歳六十二歳でありながら、いまだに世嗣に恵まれてはいない。京の宮家から迎えた御台所は御子のないまま早くに死別、十数人の側室たちの間には四男二女に恵まれたものの、四人の若君は皆成人に至る前に早世、大名家に降嫁した姫君の中、既に一人は御子のないまま二十代で亡くなっている。現在、お健やかなのは家宗公にとっては五番目のお子になる次女の耐(たえ)姫(ひめ)のみであった。耐姫は仙台藩主伊達家に嫁ぎ、夫君との間には姫君を一人儲けている。
今のところ、将軍家直系の血を受け継ぐのは、この耐姫とその所生の伊達家の姫のみであるが、耐姫の産んだ陽(はる)姫(ひめ)も既に讃岐丸亀藩に嫁している。それに、既に降嫁した姫君の血筋を今更将軍家に入れるわけにもゆかない。耐姫が伊達家に嫁した時点で、既に将軍家との拘わりはなくなっている。
つまり、家宗公の跡を継ぐべき者は目下のところ、どこにもいないのだ。
江戸時代も半ばを過ぎた現在、天下泰平の世が続いている。戦国乱世を語る者も最早いなくなり、戦に明け暮れたのは遠い昔のこととなった。世情は一見安定はしているけれど、油断が堕落を生み、人々はどこか刹那的な享楽を求めるようになっている。江戸にも華やかな町人文化が花開いたが、それはどこか世情を反映した退廃的な香りの漂うものであった。
平和に慣れきった人々は、どこかで刺激を求めている。幕府は表面的にはまだまだ安定を保ち、将軍の威光は衰えてはいないが、その礎は確実に揺らぎ始めつつあった。この国は土台から少しずつ蝕まれてゆきつつある。少しでも良識ある、幕政に携わる者は、そのことに気付いていた。
そんな中、幕府の頂点に立つ将軍が後嗣のおらぬまま倒れたのだ。
「嵐が来るやもしれぬな」
「嵐、でございますか」
泉水と時橋は互いに顔を見合わせた。
「時橋、どうやら大変なことになったようじゃの」
呟きが終わらぬ中に襖が静かに開き、眼前に乳母の時橋が畏まっていた。
「さようでございますね。上さまはいまだにお世継ぎがいらっしゃいませぬゆえ」
それから先は口に出さずとも、互いに考えていることは同じだと判る。
現将軍徳川家宗公は、おん歳六十二歳でありながら、いまだに世嗣に恵まれてはいない。京の宮家から迎えた御台所は御子のないまま早くに死別、十数人の側室たちの間には四男二女に恵まれたものの、四人の若君は皆成人に至る前に早世、大名家に降嫁した姫君の中、既に一人は御子のないまま二十代で亡くなっている。現在、お健やかなのは家宗公にとっては五番目のお子になる次女の耐(たえ)姫(ひめ)のみであった。耐姫は仙台藩主伊達家に嫁ぎ、夫君との間には姫君を一人儲けている。
今のところ、将軍家直系の血を受け継ぐのは、この耐姫とその所生の伊達家の姫のみであるが、耐姫の産んだ陽(はる)姫(ひめ)も既に讃岐丸亀藩に嫁している。それに、既に降嫁した姫君の血筋を今更将軍家に入れるわけにもゆかない。耐姫が伊達家に嫁した時点で、既に将軍家との拘わりはなくなっている。
つまり、家宗公の跡を継ぐべき者は目下のところ、どこにもいないのだ。
江戸時代も半ばを過ぎた現在、天下泰平の世が続いている。戦国乱世を語る者も最早いなくなり、戦に明け暮れたのは遠い昔のこととなった。世情は一見安定はしているけれど、油断が堕落を生み、人々はどこか刹那的な享楽を求めるようになっている。江戸にも華やかな町人文化が花開いたが、それはどこか世情を反映した退廃的な香りの漂うものであった。
平和に慣れきった人々は、どこかで刺激を求めている。幕府は表面的にはまだまだ安定を保ち、将軍の威光は衰えてはいないが、その礎は確実に揺らぎ始めつつあった。この国は土台から少しずつ蝕まれてゆきつつある。少しでも良識ある、幕政に携わる者は、そのことに気付いていた。
そんな中、幕府の頂点に立つ将軍が後嗣のおらぬまま倒れたのだ。
「嵐が来るやもしれぬな」
「嵐、でございますか」
泉水と時橋は互いに顔を見合わせた。