胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第16章 嵐
外は思いの外、強い風が吹いている。
雨が降ってきたのか、かすかな雨音が軒を打ち、風が庭の樹の梢をざわめかせ、雨戸を鳴らしていた。
夜明けが近いのであろう、それでも、東の空はわずかに明るくなりつつあった。
泉水の良人榊原泰雅は五千石取りの直参旗本である。無役ではあったが、公方さまの大のお気に入りで、その前途は有望視されていた。何しろ、生母が家宗公の姪、つまり祖母が家宗公の妹君、祖父が先の老中に当たるという家柄の良さを誇るのだ。更に、この榊原家は三河以来、将軍家に仕え続ける譜代の名門であった。
泉水の父槙野源太夫宗俊は公方さまのお憶えもめでたく、時の勘定奉行という要職についている。泉水は一年余り前、泰雅に嫁いできた。最初の頃はすれ違いの多かった二人だが、今は夫婦として心通い合わせ、泉水は幸せな日々を過ごしている。かつて女狂いと囁かれた泰雅は、稀代の遊び人として知られていた。女から女へと渡り歩き、江戸市中を徘徊しては女を口説き回っていた。その容姿の端麗さと無類の女好きとをかけて〝今光源氏〟なぞと陰で呼ばれていたのだ。
その泰雅が今は泉水一人を妻として守り通し、まるで別人のように屋敷で大人しくしている。〝病気〟とまで云われた女狂いは、ふっつりと止んで、泉水は泰雅の寵愛を一身に集めていた。
実は泉水もまた少々風変わりな姫として知られていた。〝槙野のお転婆姫〟といえば、江戸っ子でも知っている。姫君らしく屋敷の奥で大人しくしているよりは、庭で木刀を振り回したり樹登りをしたりするのが好き、男装してはお忍びで町に出て、自由な空気を満喫していたものだ。
おまけに、泉水は一度、許婚者を失っている。この許婚者は親同士が決めたものであり、相手の堀田祐次郎は泉水が十一の春に病死した。そのため、婚約した相手の男を取り殺す〝物の怪憑きの姫〟なぞと評判が立ち、ますます縁遠くなってしまった。乳母の時橋なぞはそのことを日頃から随分と嘆いていたものだった。もっとも、当の泉水自身は少しも頓着していなかったが―。
泉水と泰雅の結婚を決めたのは、そもそもは将軍家宗公であった。泰雅もまた女たちの熱い視線を集めてはいたものの、いざ結婚となると、娘の親からは敬遠される。妻を置き去りにして放蕩に耽る不誠実な良人―、そんな男に大切な娘をやりたくないと思うのは、どの親も同じだろう。
雨が降ってきたのか、かすかな雨音が軒を打ち、風が庭の樹の梢をざわめかせ、雨戸を鳴らしていた。
夜明けが近いのであろう、それでも、東の空はわずかに明るくなりつつあった。
泉水の良人榊原泰雅は五千石取りの直参旗本である。無役ではあったが、公方さまの大のお気に入りで、その前途は有望視されていた。何しろ、生母が家宗公の姪、つまり祖母が家宗公の妹君、祖父が先の老中に当たるという家柄の良さを誇るのだ。更に、この榊原家は三河以来、将軍家に仕え続ける譜代の名門であった。
泉水の父槙野源太夫宗俊は公方さまのお憶えもめでたく、時の勘定奉行という要職についている。泉水は一年余り前、泰雅に嫁いできた。最初の頃はすれ違いの多かった二人だが、今は夫婦として心通い合わせ、泉水は幸せな日々を過ごしている。かつて女狂いと囁かれた泰雅は、稀代の遊び人として知られていた。女から女へと渡り歩き、江戸市中を徘徊しては女を口説き回っていた。その容姿の端麗さと無類の女好きとをかけて〝今光源氏〟なぞと陰で呼ばれていたのだ。
その泰雅が今は泉水一人を妻として守り通し、まるで別人のように屋敷で大人しくしている。〝病気〟とまで云われた女狂いは、ふっつりと止んで、泉水は泰雅の寵愛を一身に集めていた。
実は泉水もまた少々風変わりな姫として知られていた。〝槙野のお転婆姫〟といえば、江戸っ子でも知っている。姫君らしく屋敷の奥で大人しくしているよりは、庭で木刀を振り回したり樹登りをしたりするのが好き、男装してはお忍びで町に出て、自由な空気を満喫していたものだ。
おまけに、泉水は一度、許婚者を失っている。この許婚者は親同士が決めたものであり、相手の堀田祐次郎は泉水が十一の春に病死した。そのため、婚約した相手の男を取り殺す〝物の怪憑きの姫〟なぞと評判が立ち、ますます縁遠くなってしまった。乳母の時橋なぞはそのことを日頃から随分と嘆いていたものだった。もっとも、当の泉水自身は少しも頓着していなかったが―。
泉水と泰雅の結婚を決めたのは、そもそもは将軍家宗公であった。泰雅もまた女たちの熱い視線を集めてはいたものの、いざ結婚となると、娘の親からは敬遠される。妻を置き去りにして放蕩に耽る不誠実な良人―、そんな男に大切な娘をやりたくないと思うのは、どの親も同じだろう。