胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第16章 嵐
泰雅本人もまた気儘な独身生活を謳歌することに満足しており、格別に妻を娶りたいとは考えてはいなかった。
が、将軍のお声掛かりともあり、この縁談は滞りなくまとまり、泉水は泰雅と婚礼を挙げることになったというわけだ。多くの美しい女や才知の溢れる女を相手にしてきた泰雅、泰雅ほどの男が何故、自分のような何の面白みもない世間知らずの娘を気に入ったのか。その理由は、泉水でさえ判らない。強いていえば、才色兼備の女しか知らぬ泰雅の眼に、〝お転婆姫〟が新鮮に―珍しく映じたのかもしれない。泉水は自分ではそう思っている。要するに、自分のような、ろくに男女の機微も心得ぬ娘に、泰雅をずっとつなぎ止めておくだけの魅力があるとは思えない。
泉水の口から知らず溜息がこぼれ落ちる。
泰雅は今は泉水一人だけだと言ってくれているけれど、いずれ自分に飽きて、また別の女のところへいってしまうのではないか。
そんな不安がいつも澱のように心の奥底に淀んでいた。確たる証もないのに、その想いは、泉水を常に不安に怯えさせる。
だが、今は我が身一人の些細な不安なぞ、取るに足らぬものだ。将軍家に世継がおわさぬ今、現将軍家宗公が倒れたというのは、事は重大であった。それでなくても、次の将軍位をめぐり、水面下では熾烈な争いが繰り広げられている。初代東照公家康は将軍宗家の他、いわゆる御三家と呼ばれるものを創設した。即ち、水戸、紀州、尾張の徳川家である。家康は三人の我が子にそれぞれ分家させ、その御三家の当主の地位を与えた。
その中で水戸徳川家は代々副将軍の地位に就くため、将軍宗家に入ることはない。尾張、紀州徳川家は将軍家に万が一世嗣誕生無き際、分家から入って宗家を継ぐために作られた、いわゆるお控えさま的な立場にあった。
かねてから尾張藩主徳川光利(みつとし)を次の将軍に推す一派が勢いを増してきている。尾張藩主徳川郷(さと)宗(むね)を推す一派もないではなかったが、郷宗は既に齢五十に近い。いわば、老齢といって差し支えない歳に達していた。そのため、やはり次期将軍候補として最有力視されていたのが、この徳川光利である。光利は今年で二十七歳になる。三年前に父光宗の引退により藩主の座を譲り受けた。積極的に藩政改革に乗り出し、それは着実な成果を上げていると聞く。
が、将軍のお声掛かりともあり、この縁談は滞りなくまとまり、泉水は泰雅と婚礼を挙げることになったというわけだ。多くの美しい女や才知の溢れる女を相手にしてきた泰雅、泰雅ほどの男が何故、自分のような何の面白みもない世間知らずの娘を気に入ったのか。その理由は、泉水でさえ判らない。強いていえば、才色兼備の女しか知らぬ泰雅の眼に、〝お転婆姫〟が新鮮に―珍しく映じたのかもしれない。泉水は自分ではそう思っている。要するに、自分のような、ろくに男女の機微も心得ぬ娘に、泰雅をずっとつなぎ止めておくだけの魅力があるとは思えない。
泉水の口から知らず溜息がこぼれ落ちる。
泰雅は今は泉水一人だけだと言ってくれているけれど、いずれ自分に飽きて、また別の女のところへいってしまうのではないか。
そんな不安がいつも澱のように心の奥底に淀んでいた。確たる証もないのに、その想いは、泉水を常に不安に怯えさせる。
だが、今は我が身一人の些細な不安なぞ、取るに足らぬものだ。将軍家に世継がおわさぬ今、現将軍家宗公が倒れたというのは、事は重大であった。それでなくても、次の将軍位をめぐり、水面下では熾烈な争いが繰り広げられている。初代東照公家康は将軍宗家の他、いわゆる御三家と呼ばれるものを創設した。即ち、水戸、紀州、尾張の徳川家である。家康は三人の我が子にそれぞれ分家させ、その御三家の当主の地位を与えた。
その中で水戸徳川家は代々副将軍の地位に就くため、将軍宗家に入ることはない。尾張、紀州徳川家は将軍家に万が一世嗣誕生無き際、分家から入って宗家を継ぐために作られた、いわゆるお控えさま的な立場にあった。
かねてから尾張藩主徳川光利(みつとし)を次の将軍に推す一派が勢いを増してきている。尾張藩主徳川郷(さと)宗(むね)を推す一派もないではなかったが、郷宗は既に齢五十に近い。いわば、老齢といって差し支えない歳に達していた。そのため、やはり次期将軍候補として最有力視されていたのが、この徳川光利である。光利は今年で二十七歳になる。三年前に父光宗の引退により藩主の座を譲り受けた。積極的に藩政改革に乗り出し、それは着実な成果を上げていると聞く。