胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第16章 嵐
例えば、例年の干ばつで田畑に荒れ地が続出していた。そのため農村では田畑の収穫も期待できず、定収入が無くなった。干ばつに悩まされながらも、ひとたび大雨が降れば、それらの農村は忽ちにして洪水の被害に遭う。そこで、光利は逆に治水工事などを行い、仕事にあぶれた人々を工事に携わる人夫として登用し、わずかではあるが労働に対する賃金を支給することにしたのである。
地元尾張では、光利を尾張藩中興の英主、〝東照公の再来〟と崇める者まで出始めたらしい。長身で男ぶりもなかなか、さながら今、江戸で人気沸騰中の女形市川瀬五郎に似ているとかで、女たちの中には畏れ多くも陰で光利を〝利さま〟と呼んで贔屓の役者衆を崇めるように言う者もいるとか、いないとか。
そのような下世話な噂はともかく、今、尾張藩内には活力が溢れ、領民は生き生きとしている、というのが大方の味方であった。藩主の座について三年、若き君主の気力溢れる治世はそのまま領民の暮らしぶりにも反映されていた。
「次の公方さまは恐らくは尾張の―」
言いかけた時橋を、泉水は眼顔で制した。
「時橋。滅多なことは口にせぬものぞ。どこで誰が聞き耳を立てておるか判らぬゆえの」
時橋は誕生直後から、泉水を育ててきた乳母である。いわば、母と呼べる大切な存在であった。
「承知致しました」
時橋は心得顔で頷いた。
外では相変わらず強い風が唸りを上げている。皐月の終わりに、嵐でもあるまいにと泉水は暗い気持ちで風の音に耳を傾けていた。
嵐が来る。すべての物を巻き込んで、根こそぎ倒してしまうほどの烈しい嵐がやってくる。何故か、無性に胸騒ぎがしてならなかった。もっとも、泉水の良人泰雅は、将軍とは血続きとはいえ、その繋がりもごく薄いものにすぎず、どう考えても泰雅がその嵐の目に巻き込まれるとは思えない。そのことだけが唯一の慰めではあった。
だが、泉水の得体の知れぬ不安は意外なところで表面化することになった。泰雅が家宗公の見舞いを終え、下城の折、何者かに襲われたのである。その知らせを泉水はいつもより少し遅くなった朝餉の最中に受けた。
いつものように時橋の給仕で食事を取っていると、家老の脇坂倉之助が色を失ってやって来たのだ。
「奥方さま、奥方さま、一大事にござりまする」
地元尾張では、光利を尾張藩中興の英主、〝東照公の再来〟と崇める者まで出始めたらしい。長身で男ぶりもなかなか、さながら今、江戸で人気沸騰中の女形市川瀬五郎に似ているとかで、女たちの中には畏れ多くも陰で光利を〝利さま〟と呼んで贔屓の役者衆を崇めるように言う者もいるとか、いないとか。
そのような下世話な噂はともかく、今、尾張藩内には活力が溢れ、領民は生き生きとしている、というのが大方の味方であった。藩主の座について三年、若き君主の気力溢れる治世はそのまま領民の暮らしぶりにも反映されていた。
「次の公方さまは恐らくは尾張の―」
言いかけた時橋を、泉水は眼顔で制した。
「時橋。滅多なことは口にせぬものぞ。どこで誰が聞き耳を立てておるか判らぬゆえの」
時橋は誕生直後から、泉水を育ててきた乳母である。いわば、母と呼べる大切な存在であった。
「承知致しました」
時橋は心得顔で頷いた。
外では相変わらず強い風が唸りを上げている。皐月の終わりに、嵐でもあるまいにと泉水は暗い気持ちで風の音に耳を傾けていた。
嵐が来る。すべての物を巻き込んで、根こそぎ倒してしまうほどの烈しい嵐がやってくる。何故か、無性に胸騒ぎがしてならなかった。もっとも、泉水の良人泰雅は、将軍とは血続きとはいえ、その繋がりもごく薄いものにすぎず、どう考えても泰雅がその嵐の目に巻き込まれるとは思えない。そのことだけが唯一の慰めではあった。
だが、泉水の得体の知れぬ不安は意外なところで表面化することになった。泰雅が家宗公の見舞いを終え、下城の折、何者かに襲われたのである。その知らせを泉水はいつもより少し遅くなった朝餉の最中に受けた。
いつものように時橋の給仕で食事を取っていると、家老の脇坂倉之助が色を失ってやって来たのだ。
「奥方さま、奥方さま、一大事にござりまする」