
胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第16章 嵐
泉水が頷くと、時橋は静かに言った。
「尾張さまが次期将軍家の最有力候補と見なされておられることは、お方さまも既にご存じでございましょう?」
「その話なら私も存じておる」
泉水が頷くと、時橋は続けた。
「その尾張さまに不審な動きありとの専らの噂にござります」
「不審な動き?」
「さようにございます。現藩主光利公のご生母昭英(しようえい)院(いん)さまがしきりに公方さまに近づいて、光利公を次の将軍にと進言申し上げておられるとか」
光利の生母昭英院は淑(ひで)姫といい、やはり将軍家宗公の妹の一人である。いわば、尾張藩主徳川光利は現将軍の甥にして、しかも御三家の当主であった。まさに血筋的にも次期将軍として申し分ないともいえる。それだけに、生母の昭英院が兄に事ある毎に息子に次の将軍職をと囁いているのも当然といえば当然であった。
「その昭英院さまでございますが、何故か、こちらの榊原の殿を眼の仇にしておられると」
「―」
泉水は思いもかけぬ話に、言葉を失った。
「よく判らぬ。何ゆえ、昭英院さまが我が殿を眼の仇になさらねばならぬのじゃ? 昭英院さまは、ご子息を次の公方さまにと望んでおられるのであろう?」
そこで、泉水はハッとした。
さも怖ろしいことを思い出してしまったとでもいうように、恐る恐る時橋を見る。
「まさか、昭英院さまは、上さまが将軍職を殿にお譲りあそばすとでもお考えなのであろうか?」
「流石はお方さま。ご賢察でいらせられます」
頷いた時橋に、泉水は首を振った。
「判らぬ、何故じゃ。確かに上さまは殿を殊の外お気に入りあそばされてはおられるが、いかに何でも、次の将軍にまでとお考えになられているとはゆめ思えぬ。第一、殿は将軍家とは血続きとは申せ、母君の景容院さまは上さまの姪、しかも、殿ご自身のご身分も五千石の直参旗本の当主にすぎぬ。その点、上さまの妹君を母君に持たれ、ご自身も御三家筆頭のご当主の尾張さまとは全く違うではないか。お血筋から考えてみても、尾張さまが次の将軍位をお継ぎになるのは道理、昭英院さまがそのようなご心配をなさる必要は一切ないと思うが」
「尾張さまが次期将軍家の最有力候補と見なされておられることは、お方さまも既にご存じでございましょう?」
「その話なら私も存じておる」
泉水が頷くと、時橋は続けた。
「その尾張さまに不審な動きありとの専らの噂にござります」
「不審な動き?」
「さようにございます。現藩主光利公のご生母昭英(しようえい)院(いん)さまがしきりに公方さまに近づいて、光利公を次の将軍にと進言申し上げておられるとか」
光利の生母昭英院は淑(ひで)姫といい、やはり将軍家宗公の妹の一人である。いわば、尾張藩主徳川光利は現将軍の甥にして、しかも御三家の当主であった。まさに血筋的にも次期将軍として申し分ないともいえる。それだけに、生母の昭英院が兄に事ある毎に息子に次の将軍職をと囁いているのも当然といえば当然であった。
「その昭英院さまでございますが、何故か、こちらの榊原の殿を眼の仇にしておられると」
「―」
泉水は思いもかけぬ話に、言葉を失った。
「よく判らぬ。何ゆえ、昭英院さまが我が殿を眼の仇になさらねばならぬのじゃ? 昭英院さまは、ご子息を次の公方さまにと望んでおられるのであろう?」
そこで、泉水はハッとした。
さも怖ろしいことを思い出してしまったとでもいうように、恐る恐る時橋を見る。
「まさか、昭英院さまは、上さまが将軍職を殿にお譲りあそばすとでもお考えなのであろうか?」
「流石はお方さま。ご賢察でいらせられます」
頷いた時橋に、泉水は首を振った。
「判らぬ、何故じゃ。確かに上さまは殿を殊の外お気に入りあそばされてはおられるが、いかに何でも、次の将軍にまでとお考えになられているとはゆめ思えぬ。第一、殿は将軍家とは血続きとは申せ、母君の景容院さまは上さまの姪、しかも、殿ご自身のご身分も五千石の直参旗本の当主にすぎぬ。その点、上さまの妹君を母君に持たれ、ご自身も御三家筆頭のご当主の尾張さまとは全く違うではないか。お血筋から考えてみても、尾張さまが次の将軍位をお継ぎになるのは道理、昭英院さまがそのようなご心配をなさる必要は一切ないと思うが」
