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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第16章 嵐

 将軍家宗公は、その夜、側女を一度抱いた。その後、〝疲れた〟とひと言洩らしたかと思うと、すぐに煩いほどのいびきをかき始め、夜半から異様なほどの高いびきは止まることがなかった。顔も発熱しているのように紅く、事態の異常さに気付いた側室が不寝番に知らせたのだ。すぐに侍医が呼ばれ、診察に当たった結果、卒中の特徴的な症状だとの診断が下った。
 泰雅が駆けつけた時、既に将軍の身柄は中奥に移されていた。数人の侍医が枕頭に侍り、懸命な治療が施されており、既に知らせを受けた老中たちが次の間に控えていたが、皆沈痛な面持ちであった。
 確かに六十二歳の将軍に後嗣たるべき男子は一人もいない。目下、正式な世継が定められておらぬ今、将軍に万が一のことがあった時、次の将軍を誰にするのかを決める必要があった。だが、直参旗本、榊原家の当主である泰雅には、将軍職相続については何の拘わりもない。一臣下として将軍の身は案じられたものの、泰雅には権力闘争には何の関心もなかった。
 老中たちの思案事は、今、次の将軍を誰にするか、そのことだけで一杯だろう。まだ家宗公は生きているのに、早くも彼等は次期将軍は誰かという話に夢中であった。泰雅はそんな彼等を冷ややかな眼で一歩離れて眺めていたのだ。
 夜明けまで将軍の枕辺に詰め、陽が高くなってから漸く下城したのだが、その帰途、いきなり横から襲われた。江戸城に行き帰りする際、泰雅は常に数人の伴を連れ、自身は駕籠に乗る。曲者は三人、いずれもが相当の手練ればかりであった。その中の一人、泰雅の駕籠を直接狙った男が中でもいちばんの遣い手であったろう。異変を察知した泰雅は、すぐに駕籠を降り、応戦した。
 むろん、伴の者たちもよく闘ったが、家臣に守られるはずの泰雅が実は家臣たちよりも腕が立ったというのは皮肉な話だった。結局、賊は泰雅の右腕に斬りつけ、浅手を負わせただけで退散した。というのも、三人の刺客の中、一人は深手を負い、一人が囚われの身となったからだ。泰雅に斬りつけた男だけが唯一、傷を負っていなかった。その男が深手を負った仲間を連れ、逃げ去り、捕らえた男は尋問の責め苦を受けるより前に自らその場で舌を噛み切って死んだ。
 その時、泰雅の伴をしていた若い家臣がふと洩らした。

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