
胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第2章 《戸惑う心》
この男がこの屋敷の主であるということは、つまりはこの男こそ榊原家の当主泰雅その人であることを示す。
あまりに酷い現実に、泉水は茫然とするしかない。十七年間で初めて知った恋が無惨に潰えた瞬間であった。切れ者ではあるが、女狂いとまで囁かれている遊び人が泉水の恋い焦がれた男の正体だった―。
「私はこの家の奉公人ではありませぬ。あなたは、あなたというお人はご自分の妻の貌さえご存じないのですね」
叫ぶと、涙が溢れてきた。
「今、何と申した、そなたが俺の妻―、槇野の姫だと申すのか」
泰雅の方も意外な事実に、愕きを隠せないようだ。
「私があなたのこれまでのお仕打ちに何も感じなかったとでもお思いになられるのですか? 捨て置かれることは致し方なしとしても、せめて上辺だけでも夫婦として体裁を取り繕って下されば、槇野の家から私についてきた者たちも耐えることができましたものを」
泉水の悲運を嘆き、泰雅の酷い仕打ちを恨めしく思っていたのは、何も乳母時橋だけではない。槇野源太夫の命で泉水に付けられた古参の老臣にしろ、若い腰元にしろ、槇野家から付き従ってきた皆が口惜しく感じていたのだ。
「どうせ政略で決められた結婚だ。互いに理解し合おうなぞと思う方がかえって面倒だろうと思うたのだ。そなたにしろ、端から俺のことなぞどうでも良かったのではないか。だからこそ、俺がそなたに逢おうとしなくとも、平然と日々好きなように暮らしていたのであろう。俺が耳にしたそなたの暮らしぶりは、到底良人に捨て置かれ、哀しみに暮れる妻のものとは思えなかったが?」
泉水は息を呑んだ。泰雅は無関心を装いながら、その実、泉水の動向や暮らしぶりを報告させていたらしい。
「下手に干渉し合うたりせず、互いに好きなように別々に暮らした方がいっそ良いのではないかと考えていた。嫁いでからのそなたの生き生きとした暮らしぶりを見る限り、俺の考えが間違っていたとも思えぬのだがな」
泉水は唇を噛んだ。悔しいけれど、何も言い返せない。泰雅の言うことは多分、正しい。
泉水は泰雅の訪れがないことを少しも淋しいとも残念だとも思わなかった。
あまりに酷い現実に、泉水は茫然とするしかない。十七年間で初めて知った恋が無惨に潰えた瞬間であった。切れ者ではあるが、女狂いとまで囁かれている遊び人が泉水の恋い焦がれた男の正体だった―。
「私はこの家の奉公人ではありませぬ。あなたは、あなたというお人はご自分の妻の貌さえご存じないのですね」
叫ぶと、涙が溢れてきた。
「今、何と申した、そなたが俺の妻―、槇野の姫だと申すのか」
泰雅の方も意外な事実に、愕きを隠せないようだ。
「私があなたのこれまでのお仕打ちに何も感じなかったとでもお思いになられるのですか? 捨て置かれることは致し方なしとしても、せめて上辺だけでも夫婦として体裁を取り繕って下されば、槇野の家から私についてきた者たちも耐えることができましたものを」
泉水の悲運を嘆き、泰雅の酷い仕打ちを恨めしく思っていたのは、何も乳母時橋だけではない。槇野源太夫の命で泉水に付けられた古参の老臣にしろ、若い腰元にしろ、槇野家から付き従ってきた皆が口惜しく感じていたのだ。
「どうせ政略で決められた結婚だ。互いに理解し合おうなぞと思う方がかえって面倒だろうと思うたのだ。そなたにしろ、端から俺のことなぞどうでも良かったのではないか。だからこそ、俺がそなたに逢おうとしなくとも、平然と日々好きなように暮らしていたのであろう。俺が耳にしたそなたの暮らしぶりは、到底良人に捨て置かれ、哀しみに暮れる妻のものとは思えなかったが?」
泉水は息を呑んだ。泰雅は無関心を装いながら、その実、泉水の動向や暮らしぶりを報告させていたらしい。
「下手に干渉し合うたりせず、互いに好きなように別々に暮らした方がいっそ良いのではないかと考えていた。嫁いでからのそなたの生き生きとした暮らしぶりを見る限り、俺の考えが間違っていたとも思えぬのだがな」
泉水は唇を噛んだ。悔しいけれど、何も言い返せない。泰雅の言うことは多分、正しい。
泉水は泰雅の訪れがないことを少しも淋しいとも残念だとも思わなかった。
