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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第17章 予期せぬ客人

 ずっと手をついていた泉水が顔を上げた時、既に光利の姿はそこになく、ただ何の香か、かぐわしい―けれども、どこか妖しい香りがかすかに残っているだけであった。恐らくは光利が着物に焚きしめていたものに相違ない。
 あの色香の匂うような男にふさわしい、上品でありながら、どこか官能的な香りの漂う香であった。
 尾張大納言徳川光利―、不思議な男であったが、なかなかの器を感じさせる人物でもあった。
―奥方のような妻を得て、榊原どのは果報者だな。
 この光利が去り際に残した科白の意味を泉水はついに知ることはなかったが、光利は藩主になった年に先立つこと一年前、正室を亡くしている。この御簾中は京の五摂家の一つ一条家から迎えた高貴な姫君であったが、気位が高く、光利とは打ち解け合えぬままに二十一歳の若さで病死していた。
 光利には数人の侍妾がおり、既にその時、世継の男児も儲けていた。それでもなお、光利の眼に泉水はどのように映じたのであろうか。深窓の姫君らしくもなく、堂々と臆することなく光利の前でも自分の意見を述べ、あくまでも良人を信じ、その心に寄り添おうとしていた。
 もしかしたら―、薄幸な結婚生活を送らざるを得なかった光利は、泰雅にどこかで羨望を感じていたのかもしれない。

 その夕刻。
 既に泰雅は下城しており、今宵も常のようにお渡りがあると泉水の許に知らされていた。
 むろん、徳川光利卿の来訪は知らせた。光利の名を聞き、泰雅は一瞬、懐かしげな表情を見せたものの、格別に関心を示すことはなかった。どこか上の空といった風に見えたのだが、それはやはり家宗公の容態が依然として思わしくないせいであろう―と、泉水は結論づけた。
 そろそろ夕餉の時間が近づいてきた頃、泉水は奥女中たちが住まう部屋が並ぶ一角に来ていた。榊原の屋敷は広く、表と奥に厳然と区別されている。奥向きの女主人は当主の正室である泉水、そして奥女中を取り締まるのが老女河嶋の役目であった。河嶋は泰雅の乳母を務めたこともあり、屋敷内では厳然たる発言力を持っている。泉水でさえ河嶋には一目置いていた。

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