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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第17章 予期せぬ客人

「一輪の花でも、少しは華やかになろう」
 泉水はそう言うと、庭に降りて手ずから摘んだ紫陽花の花を差し出した。
 徳川光利と対面した庭に咲いていた純白の紫陽花である。
「これは奥方さま」
 河嶋は愕いた顔で慌てて立ち上がった。
「ご用がおありでございましたならば、お呼び下されば、すぐにでもお伺い致しましたものを」
「良いのじゃ。私も丁度、暇でな、少し誰かと話がしたいと思うておったところよ」
「お心遣い、ありがとうございまする」
 河嶋は鹿爪らしい顔で紫陽花を押し頂いた。
「わざわざ、かような場所にまでお運び頂くのは、心苦しうございます」
「そのような堅苦しき物言いは無用ぞ。そなたには是非、聞かせて貰いたい話があって参ったというに」
 泉水が揶揄するように言うと、河嶋が意外そうに眼を瞠った。
「はて、この私なぞに奥方さまが何をお訊ああそばされたいと?」
「されば、殿のご幼少の砌の話なぞしては貰えまいか」
「殿のご幼少の砌のお話でございまするか?」
「ああ、景容院さまとはご対面する機会もなく、殿のお小さい頃の話を聞きたいと願うても、なかなか思うようにならぬ。さりながら、殿の乳人を務めたそなたであれば、その話も存分に聞かせてくれるのではないかと思いついてな」
「さようにございますか」
 河嶋がとりあえずは納得したというように頷く。泰雅と泉水の睦まじさは屋敷内でも知られている。まだ漸く新婚一年めの新妻が良人の子どもの頃を知りたいと思っても、不思議はない。
「して、殿は、いかようなるお子でおわされたのであろうな」
 畳みかけると、河嶋は小さな息を吐いた。
「ご利発な―、ご両親思いのお優しいお子さまでいらせられました」
 呟くと、遠い眼になる。その眼は膝の上に乗った純白の花に向けられているが、その実、何も映してはいないだろう。河嶋が今見つめているのは、もうとうに過ぎ去った二十数年前の日々に違いない。
「景容院さまと殿は、どのような親子でいらっしゃったのであろうか。私はまだ景容院さまとは親しくお話することもないゆえ、そのお人柄もよくは判らぬが」

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