胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第18章 秘密
榊原どのにまつわる秘密を利用する奴らがおらぬとも限らぬ。
今更ながらに、尾州公の言葉が蘇る。
泰雅が家宗公のご落胤であると知る者が今でも存在したとしても何の不思議はない。家宗公が以前からあれほど泰雅を可愛がるのもやはり、このような経緯があったからだろう。
家宗公自身も泰雅が我が血を引く息子であると知っているのだ。
だが、泉水には、それらは、取るに足りないことであった。泰雅の父親がどこの誰であろうが、泉水の気持ちには一切拘わりはない。泰雅は、泉水が愛した男であることは変わらない。
泉水の願いはただ一つ。
泰雅さえ無事でいれてくれれば良い。いつも明るく笑っていてくれれば良い。
泰雅の笑顔を守るためなら、泉水は自分の生命だって歓んで差し出すだろう。
固く閉じた眼から、また透明な雫が溢れ、頬をつたい落ちた。
これより少し刻は遡る。
泉水が別邸で景容院と対峙していたのとほぼ同じ時間、泰雅は江戸城の老中の詰め所にいた。将軍の容態について特に話したいことがあるからと言われ、拒むこともできない。
泰雅は言われるがままに、老中阿倍定親と共に詰め所である間に赴いた。しかし、他の老中も顔を揃えていると聞かされていたのに、広い座敷はがらんとしており、他には誰もいなかった。
「阿倍どの、これは一体、いかなることでござりますか」
この場合、口調に咎める響きがあったのは致し方なかったろう。
阿倍定親はいささかも動ずる様子もなく、真正面から泰雅を見据えた。
「ま、そのように怖い顔をなさらず、お座りになられてはいかがかな」
自らはどっかりと腰を下ろす。そのふてぶてしさに、泰雅は珍しく内心の憤りを隠せない。押し黙ったまま、仕方なく阿倍から少し離れた向かいに座った。
「上さまのお具合のことで何か話したいことがあると仰せでありましたが」
四十歳を迎えた阿倍に比べ、二十六歳の泰雅はやはり若い。いくら沈着とはいえ、海千山千の為政者である定親に叶うはずもなかった。定親が老中首座にまで上り詰めたのは三十歳の若さのときである。以来、彼は苛酷な政の表舞台で生き抜いてきたのだ。
今更ながらに、尾州公の言葉が蘇る。
泰雅が家宗公のご落胤であると知る者が今でも存在したとしても何の不思議はない。家宗公が以前からあれほど泰雅を可愛がるのもやはり、このような経緯があったからだろう。
家宗公自身も泰雅が我が血を引く息子であると知っているのだ。
だが、泉水には、それらは、取るに足りないことであった。泰雅の父親がどこの誰であろうが、泉水の気持ちには一切拘わりはない。泰雅は、泉水が愛した男であることは変わらない。
泉水の願いはただ一つ。
泰雅さえ無事でいれてくれれば良い。いつも明るく笑っていてくれれば良い。
泰雅の笑顔を守るためなら、泉水は自分の生命だって歓んで差し出すだろう。
固く閉じた眼から、また透明な雫が溢れ、頬をつたい落ちた。
これより少し刻は遡る。
泉水が別邸で景容院と対峙していたのとほぼ同じ時間、泰雅は江戸城の老中の詰め所にいた。将軍の容態について特に話したいことがあるからと言われ、拒むこともできない。
泰雅は言われるがままに、老中阿倍定親と共に詰め所である間に赴いた。しかし、他の老中も顔を揃えていると聞かされていたのに、広い座敷はがらんとしており、他には誰もいなかった。
「阿倍どの、これは一体、いかなることでござりますか」
この場合、口調に咎める響きがあったのは致し方なかったろう。
阿倍定親はいささかも動ずる様子もなく、真正面から泰雅を見据えた。
「ま、そのように怖い顔をなさらず、お座りになられてはいかがかな」
自らはどっかりと腰を下ろす。そのふてぶてしさに、泰雅は珍しく内心の憤りを隠せない。押し黙ったまま、仕方なく阿倍から少し離れた向かいに座った。
「上さまのお具合のことで何か話したいことがあると仰せでありましたが」
四十歳を迎えた阿倍に比べ、二十六歳の泰雅はやはり若い。いくら沈着とはいえ、海千山千の為政者である定親に叶うはずもなかった。定親が老中首座にまで上り詰めたのは三十歳の若さのときである。以来、彼は苛酷な政の表舞台で生き抜いてきたのだ。