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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第18章 秘密

「確かにお世継ぎの件は天下の大事にはございましょうが、それは阿倍どのを初めとされる老中方のお決めにならるること。若輩者、しかもただの旗本にすぎぬ私には拘わりなきことにございます」
 やんわりと逃げると、定親は声を低めた。
「そのようなことを仰せになられませぬように。榊原さまも先ほど、お世継ぎの件は天下の大事と仰せられた。上さまにはいまだご後嗣もおわさぬ状態、しかも、次の公方さまがどなたかということさえお示しにはなられてはおりませぬ。このような状態では、もし上さまの御身に何かありしときは、忽ち天下は動乱に至り、人心が乱れるは必定」
 気まずい沈黙が二人の間に満ちる。
 泰雅は無表情に定親を見つめていた。
「つまりは、次の将軍職継承をめぐって、諍いが起きるということにございます」
 先に口を開いたのは定親であった。
「そのような話、私には一切関わりなき話と先刻も申し上げました」
 泰雅が強い語調で返す。その態度からは何ものをも受けつけぬといった頑なさが感じられた。
「榊原どの、お逃げなさいますな。仮にもこの世に公方さまの尊(たつと)きお血筋を受け継がれてお生まれになられたからには、それなりの覚悟と務めたるものが必要と、まだお判りにはなられませぬか」
 定親の口調は厳しかった。
「何を仰せになられておるのやら、私にはとんと判りませぬ」
 あくまでも頑なな泰雅を、定親は冷めた眼で見つめた。
「それでは、この際、はきと申し上げましょう。榊原どののおん父君は畏れ多くも上さまでおわされます。しかも、榊原どのはお年も若く、お健やかで英明。将軍の器に相応しきご器量を備えていらせられる。あなたこそ、次の将軍となられるべきおお方にございますぞ」
「阿倍どのは、私を何か随分と買い被っておいでのようだ。私は阿倍さまの仰せのような徳高き、高潔な人物にはほど遠い男にござります。私が女狂いと囁かれるほどに遊興に現を抜かしておることは、阿倍どのもご存じにござりましょう。そのような人間が将軍の器に相応しいなぞ笑止千万。それに、阿倍どの。私の父は断じて公方さまなどではない。私がこの世に父と呼ぶのは、私を慈しみ、教え導いてくれた亡き父榊原泰久のみにござる。滅多なことは仰せにならないで頂きとうございます」

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