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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第18章 秘密

 泰雅は断固とした口ぶりで言った。
「お父君はあくまで榊原泰久どのである―、あなたがそう仰せになられるのであれば、それはそれで構いはしませぬ。されど、この国の一大事というこの時、どうかご勘考なさっては下さいませぬか。天下万民のためにも将軍におなり頂くこと、真剣にお考えになって頂きたい」
 定親は深々と頭を下げた。
「私は何も私利私欲でこのようなことをお願い申し上げておるのではございません。あなたを将軍職に祭り上げ、そのことで恩を売ろうとも、己れが更に権勢をふるおうとも考えているわけでもござらぬ。ただ、この国を真に憂えるからこそ、こうして頭を下げてお願いしておるのです。あなたはご自分が将軍の器ではないと申されるが、そのようなその場逃れを私が易々と信ずるとお思いか? あなたが遊び暮らしているのがただの見せかけ、世を忍ぶ仮の姿だと見抜けぬほど、この私を浅はかとお思いか?」
 泰雅は無言であった。ただ唇を引き結び、定親を睨み据えている。
「榊原どの、何ゆえ、あなたがそこまで本当のご自分を隠そうとなさるのかは判りませぬ。されど、良い加減に逃げるのも己れを偽るのもお止めなされ。折角英邁な素質を持ちながら、何故にそれを活かそうとはなさらぬ? 国のために、政の世界に、己れの才覚を活かし働こうとは思いませぬか」
 その言葉は、確かに泰雅の心を射貫いた。
―良い加減に逃げるのも己れを偽るのもお止めなされ。国のために、政の世界に、己れの才覚を活かし働こうとは思いませぬか。
―この男は。
 泰雅は愕きに満ちた眼で老中阿倍定親を見つめていた。それまでは、ただ己れの保身図ることと権勢欲の強いだけの野心家と思い込んでいたのだが、この阿倍という男、思いの外、筋の通った人間のようであった。頭の回転も速いし、先を見透す確かな眼を持っている。まさに、生まれながらの政治家であった。
 この阿倍を老中首座にいきなり抜擢したのは、将軍家宗公である。だとすれば、阿倍の力量を見抜いて登用した家宗公にもそれなりの人を見る眼があったのだろう。

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